『ジェイン・オースティンの読書会』カレン・ジョイ・ファウラー(書評)
【3月22日特記】 僕はジェイン・オースティンを1冊も読んだことがない。この小説のタイトルがこうである限り、事前に読んでいたほうが良いに決まっている。多分、一番有名な『自負と偏見』くらいは読んだことがあるか、せめて最近封切られた映画を観たか、そのくらいの素養があったほうが楽しめる小説なのだろうとは思った。
しかし、もしもオースティンの6篇の小説を全て読んだ人だけを対象とする小説であるなら、日本でそれに該当するのは恐らく大学の文学部英文学科卒で、しかも卒論に彼女を選んだような人だけになってしまうではないか。それでは読者層はあまりに狭い。そんな狭い本が出版されるはずがないと思った。
もっとも欧米ではオースティンの人気は日本と比べようがないほど高いらしい。だから、オースティンを読んだことがある人は日本より遥かに多いだろう。しかし、それでも6作全部を読みきった人がそうそういるとも思えない。もしもそういう人だけを対象としていたら、この本がアメリカでベストセラーになることもなかっただろう。
ここまでの推論が正しいとすれば、あとは1冊も読んだことがない僕でも楽しめるかどうかという問題である。そこから先は根拠がない。しかし、なんか大丈夫なような気がしたのだ。そして、その予感はどうやら外れていなかったようだ。
この小説の舞台は読書会である。メンバーの誰かの家に集まって、事前に読んできた本について皆で討論する──日本だと「げっ、そんなことするの?」という感じだが、アメリカでは社交のひとつであり、「今度一緒にテニスしない?」くらいの感覚で読書会に誘ったりするのだそうである。
確かにこの小説ではオースティンの読書会の模様が具体的に描写されている。しかし、それはあくまで舞台であり額縁である。その舞台の上で、あるいは額縁の内側で語られるのは6人の登場人物の人生である。オースティンの作品は6篇なので、読書会は当然6回開催され、登場人物の数も作品数と同じ6である(最後に7番目となる人物もいるのだが…)。一般に読書会に参加する男性は少ないらしく、ここでもグリッグひとりだけである。他の5人が既にオースティンを何度も読み返しているマニアであるのに対して、グリッグはオースティンをほとんど初めて読むことになった、元々はSF小説ファンである。
6回の読書会でこれらの登場人物が1人ずつ、生い立ちや恋や仕事や結婚/離婚、様々な面から語られ掘り下げられて行く。そこにちょこちょこオースティンの作品が絡んでくるのだが、結構丁寧に書いてくれているので、読んだことのない人にはさっぱり解らないという内容ではない。あとがきを読むと作者はちゃんと、オースティンを全く読んだことのない読者まで想定していたことが判る。
その1人ひとりの話が起伏に飛んで却々面白いし、良い話でもある。オースティンを絡ませながら非常に巧くまとめてある。重厚な作風ではなくむしろ軽い感じの小説だが、爽やかな読後感が残る。
そして、この本を読んだことがきっかけでオースティンに手を染める読者もいるのだろう。ただし、個人的な感想を述べれば、僕個人としてはオースティンを読もうとは思わなかった。多分僕の嫌いなタイプの作家である。僕はこの本だけで充分だ。そして、この小説は何故だかそういう人でも充分楽しめる小説なのである。
僕は1ページ目の1行目の行頭に出てくる「私たち」が誰なのか考えてしまって深く悩んでしまったのだが、これは気にせず読み飛ばしたほうが良い。あとがきにあるように、この「私たち」の構成員は常に変化している。不思議なことにオースティンを全く読んだことがない人をさえ、この「私たち」は取り込んでしまう力を持っているのである。
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