『沖で待つ』絲山秋子(書評)
【3月26日特記】 僕は短編小説をあまり読まない。重厚な長編が好きなのである。
それから、僕は芥川賞/直木賞受賞作をあまり読まない。いろんな意味で(外的要因も内的要因も)もう少しこなれて来てからの作品を手にすることのほうが多い。この作品を読んだのはなんかピンと来るものがあったからだ。
しかし、それにしても、読んでみると如何にも薄い。普段は1冊買ったら何度も開いて閉じてして何日後かに漸く結末にたどり着くのに、この本は下手すると1回開くだけで終わってしまう。なんだかこの本に1000円も払うのが惜しくなってしまう。
最初に収められている「勤労感謝の日」。これは良くない。
絵に書いたようなバカヤロー男が出てくる。魅力が何もない。ここまで一面的な人物が出てくると、なんか「作りもの感」が強くなる。決してこのバカ男に悪態ついているだけの小説ではなく、その裏には女性が社会から受けるプレッシャーとか、ある種そういう背面がちゃんと描き出されていることは認めるが、このバカ男の「作りもの感」のせいで非常に薄っぺらい印象だけが残ってしまう。
もう1篇の表題作「沖で待つ」は却々味のある小説ではある。ただ、これが芥川賞なのかい? 文章はよくこなれているし、登場人物もそれぞれに魅力的であって一面的な描き方もされていない。ストーリーの発想も面白い(これ書いちゃうと読む楽しみがなくなるので書かないけど)。でも、圧倒的に迫ってくるものがない。
うーん、やっぱりもうちょっとこなれてくるのを待つべきだったのか、あるいは、だから短編なんて読むんじゃなかったのか?
短編小説の力量は2つの点で測られると思う。ひとつは結末の鮮やかさと切れの良さ。もうひとつは余韻の深さ。どちらもちゃんとある小説だとは思う。でも、圧倒的に迫ってくるものがない。
うーん、ちょっと肌に合わない。少し偽悪的な面も見え隠れする作家だからかなあ?
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