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Saturday, January 21, 2006

T先生のこと

【1月21日特記】 昨日の記事で漢文を引用したら、急に高校時代の漢文教師であるT先生のことを思い出しました。

僕には3歳違いの姉がいて、彼女が卒業すると同時に僕も同じ高校に進学しました。

僕らの高校では、生徒が進級すると教師陣も同じようにスライドして1年上の学年を担当するというローテーションを組んでいたので、僕は必然的に彼女が習った教師陣に教わることになりました。

それで、新学期が始まる前から、僕は彼女から先生方についてのいろんな情報を得ていたのです。

例えば「生物のS先生は頭がおかしいとしか思えない」「数学のN先生は昔は才媛であったかもしれないが、今では耄碌してしまってその片鱗もない」「保健体育のS先生はどうしようもないバカだ」等々、ほとんどがそういう悪口でした。

それで、漢文のT先生については「授業でやっていないことばかりテストで出題する変人教師」というような触れ込みであったと思います。

ところが実際に授業を受けてみて、僕は、ことT先生に関する限りは、姉の目は節穴でしかなかったことを確信しました。

確かにT先生は授業でやったことをそのまま試験には出しません。ただ、習ったことの延長線上で解決できることが必ず出題されるのです。

例えばある日の授業で「峯」という漢字に出くわしたとします。先生は「漢字は分解して縦に並べても横に並べても同じ意味なんです。『峯』は『峰』と同じです。他にも例えば同じヤマザキさんでも『山崎』さんと『山嵜』さんがいます。シマさんでも『島』さんと『嶋』さんと『嶌』さんがいます」などと説明されます。

そうすると試験問題に「峰」や「島」が出てくることはなくて、その代わりに例えば「裡」という字の意味が問われたりするのです。

僕らは授業で習ったことを一生懸命思い出し、「裡」という字の「ころもへん」を「衣」という字に置き換えて、間に「里」を挟むと「裏」という字になることに気づきます。というか、気づいた者だけが解答を書けるのです。

そういう先生でした。彼は自分の喋ったことを暗記しているかどうかを試す気はなかったのです。自分の教えたことが生徒の血肉となっているかどうかを確かめていたのです。
僕は漢字についてのいろんな面白さをT先生から教わりました。

1年生の夏休みだったと思います。漢文の宿題に2編の詩を書き写してくるという課題が出されました。1つは杜甫の『兵車行』、もう1つは白楽天の『長恨歌』。

『兵車行』はそれほど長い詩ではありませんが、『長恨歌』のほうは長大な作品です。しかも、それをノートに鉛筆で書き写せと言うのではなく、半紙に毛筆で書けと言うのです。

僕は必死になって書き写したのですが、結局T先生はその宿題を集めませんでした。

T先生はこう言いました。
「ちゃんとやった人はやったなりのものが身に付いたということであり、やらなかった人は何も身に付かなかったというだけのことです」T先生はそう言って、フッと笑いました。

僕らはこうやって自主独立の精神を吹き込まれました。

僕は先生が「やらなかった奴は自ら成果を放棄したバカ者だ」と言ったとは受け取りませんでした。嗤われたのはむしろ僕らのほうではないかと思いました。「何の自主性もなく、ただ、先生に命じられたまま書き写しても、君らには何も身に付かないよ」と言われたような気がしました。

佐藤栄作元首相がノーベル平和賞を受賞した時、先生はこう言いました。
「湯川秀樹博士がノーベル物理学賞を受賞した際には、小学校の校長先生が生徒を集めて、『皆さんに今日はとても喜ばしいお知らせがあります』と誇らしげに語ったものです。佐藤栄作についても、果たして校長先生は同じように言えるでしょうか?」

T先生はその後、日本で最初の「一票の格差」裁判の原告となりました。

昨日の記事に書いた司馬遷による『史記』“項羽本紀”の「鴻門の会」の件を教わったのもT先生でした。『史記』の“本紀”は天下人ばかりを集めた伝記ですが、唯一人、最終的に天下を取っていない項羽を含めているのは司馬遷の思想性の顕われであると習いました。

T先生も思想性を感じさせる人でした。

前世紀の終わりごろから「思想(性)」という言葉はめっきり人気がなくなりました。しかし、今でも人は「あの人にはポリシーがない」などと他人を批判することがあります。思想性というのはポリシーよりももっと体系的で強固なものです。中には偏向しているように見えるものもあるかもしれませんが、僕は思想性を持った人間しか尊敬するに値しないと思います。

考えてみれば、長い間生きてきて僕が心の底から尊敬したのはT先生だけだったかもしれません。

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