『新リア王』高村薫(書評)
【1月15日特記】 (上下巻通じての書評)読み通すのにこんなに難儀した小説は初めてだ。
『晴子情歌』の続編であるとは知らず買ってしまった。『晴子』は読んでいない。両方読んだ知人に「『晴子情歌』を読まずに『新リア王』を読んでも解るだろうか?」と尋ねたところ、「読んでおくに越したことはないが、解らないことはない。ただし、どちらも相当に読むのがしんどい小説だ」と言う。
そんなにしんどい小説を読むために、事前に更にしんどい小説を読むのもまっぴらだと思ったので、結局いきなり『新リア王』から読むことにしたのだが、いやはや、仰せの通り、難渋を極める小説だった。
『晴子』を読んでいない者にとっては、付録の家系図と登場人物一覧だけが頼りである。やたら登場人物が多いのに、出てくるのはほとんど福澤榮と彰之の父子のみ。舞台は青森。
父の榮は70歳を過ぎた大物代議士。彰之は表向きは榮の甥ということになるが、実は榮が弟の嫁である晴子に産ませた子供で、東大を出た後漁師になったかと思うと出家して今は片田舎のボロ寺にいる──この前段の大部分が『晴子情歌』に書かれていたのだろう。
『新リア王』は榮が独りで彰之を訪ねるところから始まる。そして下巻の終わりごろまで延々この2人の対話なのである。2人が交互に自分の体験を話すので、内容は必然的に仏教と政治の話である。
この仏教の部分がしんどい。そもそも聖職者以外に僧侶の修行の話に興味を持つ者はいないだろう。ところが、その修行や儀式の内容や禅の概念や、そういう話が延々と続いて辟易する。
書いてある漢語の読み方も意味も分からない。彰之の人となりの描写であれば感情移入して読めるが、そうではなく仏教そのものの叙述が続くとたちまち忍耐を要する書物となる。
翻って政治の話のほうは面白い。
特に榮の回顧譚に出てくる5人の政治談議などは高村薫ならではの迫真のシーンである。与党と野党の対決であれば僕にでも書けるかも知れないが、自民党員2人と秘書2人+官僚というオール保守陣営での理念の対立である。非常に面白い構図である。
ただし、確かに面白いのではあるが、一向に親近感が持てない。はてさて、それが作者・高村の狙いなのかそうでないのか? いずれにしても、そういう意味でのしんどさを憶えてしまう小説なのである。
これが僕が仕事で日々接しているTV番組であったなら、「絵変わりがしない」ということで一刀両断にされるだろう。何せ2人が交互に語るばかり。しかも、話が長く難しい。TVであればすぐにチャンネルを変えられる番組、小説であればなかなか最後まで読んでもらえない作品である。
あえてそう作品が「意欲作」などと称せられるのであろうか? そう言えば全編を通じてほとんど改行のない作品を書いたラテンアメリカの小説家を思い出した。
僕は時々無性に「重い」小説を読みたくなることがある(そんな時に読むのが例えば大江健三郎であったりする)。皆さんにもそういうことってあるんだろうか? あなたにも、もしそういうことがあるなら、そんな時にこの小説を読めば良いだろう。
読み応えのある重厚な作品であることは保証する。そして多分『晴子情歌』は読んでおいたほうが良いだろう。全作を想起してイメージを膨らませることができなかった点が、この読書を倦ませる原因であったかもしれないと思うから。
しかし、それよりも大事なことに気がついた。この本を読む前にまずシェークスピアの『リア王』を読むべきである(僕はそれさえ読んでなかった)。恐らく相当踏まえている部分があるはずだ。
いずれにしても、迂闊に読む本ではない。迂闊に読むと、この濃さと深さの前に、あなたの人生が吹き飛ばされてしまう恐れもあると思う。
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