『アムニジアスコープ』スティーヴ・エリクソン(書評)
【10月4日特記】 ドン・デリーロとリチャード・パワーズとスティーヴ・エリクソン──この3人の米国の作家は僕にとってはどれを読んでも頭がクラクラするという共通点がある。と言ってもエリクソンについてはまだこの本が2冊目なのだが。
誤解を恐れずに書けば、これは恋愛小説である。250ページほどの小説の大半は、現在の恋人であるヴィヴとの暮らしを中心に、主人公の女性遍歴の話で占められている。いろんな女が登場するので、読んでいて誰が誰だったかすぐに解らなくなる。「どう考えてもこれは一度は登場した女だ」と気づいてページを遡ったことが何度もあった。
一人称で語られる主人公はS。かつて作家であり、今は新聞に映画評を書いている。時代と場所は大地震直後のLAである。
彼の頭の中でも心の中でも、あるいは時として肉体の関係においても、彼の女性遍歴は「あの女の次はこの女、その後がこの女」という風に整然と並んではおらず非常に入り乱れているのである。この辺りは記憶喪失(アムニジア)と記憶の意義と弊害を語るこの小説にふさわしい舞台装置になっていると言える。
そして、早くも前言を翻すのだが、これは恋愛小説ではない。恋愛小説と呼んでしまうには余りにも広いフィールドをカバーしているから。
一見本筋とは関係のないエピソード風に展開される話が非常に多岐にわたり、意味深長で、しかも、いちいち面白い。
──冒頭からして、主人公がヴィヴと2人でストリッパーのサハラを誘拐するところから始まる。そして新聞社の人間関係と権力闘争が語られる。主人公と、彼の親友で同僚のヴェンチュラたちは「陰謀団」と名づけられる。
続いて主人公は記事を書きあぐねてありもしない映画をでっち上げて架空の映画評を新聞に発表するのだが、後になってその映画が存在してくる。
ヴィヴと2人でケーブルTV用のポルノ番組を制作することになった主人公は、酒場で出会った女ジャスパーをモデルに脚本を書く。撮影現場に本物のジャスパーが現れて主演女優となる。
そして、何枚にもわたって書き綴った絵葉書をバラバラに送りつけてくる読者の女性Kの登場。
次に、洪水に流されそうになっているところを主人公が助けた娼婦が、主人公の家に住み着いてしまい、それをヴェンチュラと押しつけあいする滑稽なエピソード。オランダに旅立つヴィヴ。ヴェンチュラたちと一緒に新聞社に辞表を叩きつける主人公。車を盗まれ、やがて見つかった車で暴走する主人公。そんな話が次々と織り成されて行く。
彼は書く。「記憶喪失は(中略)街で手に入る一番純粋なドラッグであ」る(81ページ)と。「自由を解放と感じるよりもむしろ重荷と感じてしまうアメリカ」(145ページ)と。「私を自由にしてくれるのは魂の記憶喪失だ」(167ページ)と。「永遠の思春期に私はうんざりしている」(227ページ)と。「自分の内に見出せる、言うに値するかもしれぬことすべてを言おうとしてみる」「それ以上何も言う必要がないということを見出すかもしれない」(256ページ)にもかかわらず。
結構難しい小説である。圧倒的な存在感があるが、きれいに整理された形で我々の前に立ち現れてはくれない。我々はそれを自分の頭で解きほぐして行くことになるのである。巻末に柴田元幸の解りやすいあとがきがあって助かった。
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