映画『メゾン・ド・ヒミコ』
【8月28日特記】 映画『メゾン・ド・ヒミコ』を観てきた。
1983年に『夏がいっぱい物語』を観て以来、実は犬童一心という監督のことはすっかり忘れていた。2003年の『ジョゼと虎と魚たち』を今年になって WOWOW で観て、それがあまりに素晴らしかったので、今回この映画に惹かれたのである。
で、これはナンダカヨクワカラナイ映画なのである。にも拘らず、すごく良い映画なのだ。胸にどっしりと響いてくる何かがある。だからこそ余計にナンダヨクカワカラナイのである。
この映画は、例えば家族を捨てたゲイの父親と彼を憎んでいる娘が和解する映画ではない。ゲイの老人ホームに対する差別問題が解決する映画でもない。ゲイの青年と普通の女性が恋に落ちる映画でも、落ちそうになって断念する映画でもない。
そう、実際の生活ではそんなに見事に物事が解決したりどこかに帰結したりすることはないのである。そのことを丁寧になぞっている。
パンフレットの中で監督と2人のプロデューサが揃って「壁」という言葉を使っているが、僕はこの感じ方に納得が行かない。「壁」というような何か「一線を画する」世界がここでは描かれているだろうか? 「壁があってそれを乗り越えて行く」というような単純な図式が盛り込まれているだろうか?
──答えは否である。僕は監督がインタビューの中で語っている以下の言葉を拾い上げたい。
個人個人がそれぞれの場所で何かを試す。『ヒミコ』ってそういう“途中”の話ですよね。
そう、これはどこかに帰結する前の、いや、いつまで経ってもどこかに軸足を定めることができずに悩んだり苦しんだり、あるいは投げやりになったり、それでも不意に心が通ったりする瞬間を描いた映画なのだ。人生ってそういうもんだ。
脚本の渡辺あやはこう言っている。
小さい頃から、ムーミン谷が大好きでした。(中略)ムーミン谷の住人たちにはおよそ統一性というものがなく、思想も言語も習慣もバラバラで、(中略)どう見てもみんな違っています。
そう、彼女が描こうとしたのはそういう世界ではないだろうか。これは実は当たり前のことなのであるが・・・。
渡辺あやは他に前述の『ジョゼ』と『約三十の嘘』(大谷健太郎監督と共同執筆)の脚本も手がけている。非常に優れた書き手だと思う。
劇中終盤、柴咲コウ演ずるヒロインが「この老人ホームはインチキだ!」と叫ぶ──それは正しい。一方で、インチキの中でしか救われない人たちがいることも真実である。真実は単純ではない。
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