『アメリカン・ナルシス』柴田元幸(書評)
【6月24日特記】 この本は我々に馴染みの翻訳家・柴田元幸のエッセイ集ではなく、大学教員・柴田元幸の論文集である。不思議なことに逆にその分だけ胡散臭いものになっている。
なるほど学者というものはこういう風にして商売するのか、などと感心してしまう。あれもナルシス、これもナルシス、あれはナルシスが肥大化したもの、これはナルシスの裏返し──とまあ、牽強付会とは言わないが、あまりに辻褄が合いすぎているのもまたつまらないのものである。
もちろんこれは決して学者に特有の極端な読み方ではない。我々も本を読みながら結局は似たようなことをやっているのである。それが「読み解く」という行為なのである。
ただ、我々が好き勝手に読み解くと、決してこんな一貫性は形成されないのであって、それが読んでいて面白くない理由である。
面白くないというのは悔しいという意味であって、書いてある内容は実際興味深く面白い。──とまあ、ここまで言説を費やさないと面白さを説明できないのがこの本の前半部分(ⅠとⅡ)である。
打って変わってⅢは無条件に面白い。
パワーズ、オースター、エリクソン、カーヴァー、ダイベック、ミルハウザーという6人の作家が順に取り上げられているのだが、これらの作家を読んだことがある人にとっては単なる読み物としても非常に面白い。
僕にしてみれば、読んではみたもののなんだかよく解らなかったエリクソンや頭に入りきらなかったパワーズの作品には「はあ、そんなことが書いてあったのか」と膝から力が抜けるような思いがした。
カーヴァーは初期の短編をいくつか読んだきりで完全に忘れていたが、この本を読んでいると見事に甦ってきたし、それ以外の作品も久しぶりに読んでみようかという気になった。
オースターはずっと読んできている作家であるが、まことに抵抗感なく読めたし、ダイベックやミルハウザーに対する著者の思い入れもストレートに伝わってきた。
この6人の作家の小説を少なくとも1篇ずつくらいは読んでいる人にとってはなかなか堪能できるごちそうではなかろうか。
前半は例えて言えば「○○づくし」の会席、後半はアラカルトで好きなディッシュを6皿。うむ、満腹感あり。
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