『テレビの嘘を見破る』今野勉(書評)
【4月24日特記】 「テレビなんてどうせヤラセばっかりなんだよ」「いや、ほとんどの人はちゃんとやってるはずだよ」──この本はそういう視聴者の予断と期待に対する、テレビを作っている側からの声である。
声ではあるが「業界の一致した見解」などではない。私もテレビ局に勤めているが、残念ながら「やらせ」に対する厳然とした基準はないと言わざるを得ない。
ただ、それは職場で日々議論されているし、どこへ向かうべきかを真摯に探り続けているテレビマンがいることも確かである──この今野勉氏のように。
ここにあるのは今野氏による「業界の歴史と現状」の提示に過ぎない。これを読んだ視聴者は(著者自身が指摘しているように)多分すっきりしない気分だろう。しかし、制作者と視聴者がともに多種多様である限り明確に1本の線で境界を表すことは不可能なのであってグレーゾーンは存在する。
そのグレーゾーンを学び、埋めて行く作業がメディア・リテラシーなのである。この本はそういう意味でメディア・リテラシーの上質の教科書である。
今野氏の活躍のフィールドがドキュメンタリーとドラマであるために、ここではバラエティにおける「やらせ」をどう考えるかについてはあまり記述がない。読者はこの本を閉じた後、バラエティについてはどうなんだろうという疑問を持つだろう。次はそのことについて想像してみてほしい。それがメディア・リテラシーなのである。
「これはヤラセではないか?」という指摘が外部から寄せられることがある。局側は「ヤラセではない」と答える。ただ、この場合不幸なのは「やらせ」の定義がずれているということだ。私たちは「やらせ」はやっていないけど、ただ、「仕込み」はありますよ、と答える。
今野氏は「仕込み」という言葉は使っていないが、「再現」「しかけ」「しつらえ」などの言葉を使って説明している。まずその説明を聞いてみてほしい。
我々テレビの側の人間と視聴する側の人間がある種の合意に達しなければ、「やらせ」でなかったつもりのものが「やらせ」になってしまう。無意識にでも合意に達していればそれは気にならないシーンになる。
例えばお店の紹介やお宅拝見などの番組でリポーターが「えーっと、確かこの辺りのはずなんですが、あ、ありました、このお店です」などと言う場合、間違いなくリポーターは初めからこの場所であることを知っている。だけど、今ではこれを「やらせ」だと言って抗議してくる人はほとんどいない。
しかし、例えば私の伯母はそんなこととは夢にも思わずその手の番組を見ていたし、『クイズダービー』の問題は全て大橋巨泉が作っていて『徹子の部屋』のゲストは全て黒柳徹子が人選して呼ぶための段取りもしていると信じて疑わなかった(「だって、『私の番組』って言ってるじゃない?」)。
そういう人たちに対してどれほど「テレビ的な手法」を駆使してよいのかは、とても難しい問題である。
今野氏は「やらせがなぜいけないかは、倫理の問題としてではなく、被害の問題として考えるべきだと思う」(194ページ)と書いている。この本を読んで、テレビを見ることによってあなたがどんな害を被ったのか、あるいは感動したり知識を得たりしたのか、その損得勘定を点検してみてほしい。
そして、もしできるのであれば、その損得勘定を何らかの形でテレビの側の人間にフィードバックしてほしいと思う。
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