『すべてがFになる』森博嗣(書評)
【8月8日特記】 アイデア勝ち──「理科系の小説」と言われる森の出世作を文科系の読者である僕が読んでまとめるとこうなる。
文章は別に巧くない。人物の造形は非常に人工的で類型的。この手の小説には文章の巧さや人物造形の妙を求めない読者が多いだろう(いや、この程度のものでも褒められたりする)から、一般の読者に対してはそれで良いだろう。でも、僕のような読者にも途中で読むのを止めさせないのは、それ以外の要素があるから──それは、小説の骨組みとなる部分=構成=アイデアの勝利である。
この構成が理科系ならではの、コンピュータ言語や16進数やバーチャル・リアリティやらが入り乱れた、とても文科系には思いつかない、けれど読めば概略は理解できて「ふーん」と思ってしまう世界である(勿論、これらのことがさっぱり理解できない文科系もいるだろう。そういう人には残念ながらお薦めできない)。
「解説」で瀬名秀明が「このシリーズの主人公・犀川が漏らす言葉に目から鱗が落ちた」と書いているが、僕は全然そうではなかった。いや、犀川の言葉が的外れだと言うのではない。あまりにも当然のことを言っているとしか思えず、瀬名が感動している何箇所かの台詞を何も感じずに通り過ぎてしまったのである。僕は変な文科系なのだろうか?
瀬名はさらに「この小説は通常の小説的な『お約束』に縛られることがない」と書いている。僕が一番気に入らないのはその点である。「お約束」から離れすぎてしまうと、それは単なるそらぞらしい読み物となる。僕は変な読者なのだろうか?
ま、これは筋を読む小説である(だからあらすじについては何も書かない)。行間を読む小説ではない。それはエンタテインメントというジャンルである。そして、これは高級なエンタテインメントである。
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