『いつか王子駅で』堀江敏幸(書評)
【6月5日特記】 「今までこの作家を知らなかったとは」という無念さよりも、「この作家に巡り合うのが、この作品の良さが解るこの齢になってからで良かった」という安堵感のほうが強い。
割合だらだらした文体は、時々読み返さないと繋がりがよく分からなくなったりするが、文章自体は非常に堪能で語彙も豊か。たまに辞書を引かなければならない単語に出会うほどである。
1章から7章までは、初出が『書斎の競馬』という雑誌だったそうで、なるほどこの小説は競馬小説であるとも言える。が、実のところ競馬小説などではなくて、競馬の話はいっぱい出てくるが、競馬小説という形式を借りた何かなのである。
同様に、文中に島村利正をはじめいろんな小説が登場するが、その手の近代小説評論のようで実は近代小説評論の形を借りた何かなのであり、路面電車や王子近辺の写生文の形を借りた何かなのである。それが何なのかはよく判らないのだが、ただ、その何かこそが堀江敏幸の言わばエッセンスであることは間違いない。
凡そ浮世離れした感じの文章で、ストーリーも一向に完結しない。話はどんどん逸れて行く。主人公自体がバスや路面電車や自転車に乗ってどんどんどこかへ逸れて行く。書かれるテーマもころころ変わる。そして、競馬や近代小説や路面電車などの風景から自在に逸れて行く、その逸れて行き方こそが堀江敏幸なのではないかなどと、妙な感慨を覚えてしまう。
妙に心に残る小説なのである。妙な書評になってしまったが…。
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