『世界のすべての七月』ティム・オブライエン(書評)
【5月30日特記】 登場人物が多すぎて誰が誰だか判らない最初の章にげっそりして読むのをやめることはない。次の章になるとかなり読みやすくなるし、ストーリーに引き込まれて読むのをやめられなくなるはずだ。
この小説は1969年にダートン・ホール大学を卒業した数多くの人間を描いていて、巻頭の章で描かれるのが2000年7月の同窓会のシーンだ。そして、次の章では登場人物の一人デイヴィッド・トッドに焦点が当てられていて、彼がヴェトナム戦争で負傷して片足を失う顛末が生々しく語られる。
その次の章ではまた同窓会のシーンに戻り、その次の章ではエイミー・ロビンソンが52歳で結婚し、新婚旅行に行った先のカジノで信じられないほどの大勝ちをしたことがきっかけで一気に離婚に至る話が書いてある。その後も2000年7月の同窓会と、それから何十年か前の誰かのエピソードが交互に書かれているのだが、皆一様に悲惨な人生を送っているのが分かる。ひとりひとりについて、よくここまで悲惨なストーリーを思いついたものだと感心する、と言うよりげっそりする。暗澹たる気分に陥る。
しかし、思えば平和で幸福な人生などという代物は隣の芝生の上にしか見られないものなのかもしれない。誰だって多かれ少なかれ悲惨なことを乗り越えてきているものだ。我々のほうがこの登場人物たちほど劇的に悲惨な経験をしていない分だけ厄介な人生であるのかもしれない。
作者は別にすべてがヴェトナム戦争のせいだなんて書いていない。事実、直接ヴェトナム戦争に絡んだエピソードが紹介されているのは前述のデイヴィッドと、兵役を忌避してカナダに逃げたビリー・マクマンの2人だけである。
しかし、あの時ヴェトナム戦争があったのは確かだし、アポロ11号が月面に降り立ったのもまた確かである。ラブ&ピースの時代だった。何が悪かったということではなく、そういうものはただそこに、その時代にあったのである。
その中で彼らは自分たちの選択を重ねてきた。ヴェトナム戦争に志願して片足を失ったのも、カナダに逃れたために最愛の恋人と別れる羽目になったのもすべて自分たちの選択である。
他人の家に不法侵入して牧師の資格を失ってしまったポーレット・ハズロがビリーに言っている──「人生というのはそういうことによって初めて人生らしくなるのよ」(438頁)。ビリーはこう返している──「僕らはすなわち、僕らが選んだものなんだ」(444頁)。
やがて長い長い同窓会が終わって皆が散り散りバラバラ家路に着く。同窓会の途中で破綻を迎えてしまった夫婦がいるかと思えば、この会で新たに出来上がった中年カップルもいる。
作者は書いている──「数百万のその時代を生き延びた人々について言えば、来るべき素晴らしいものごとについての幻想を更新し続けることは、どうしても必要なのだ」(455頁)と。
ティム・オブライエンについては、僕は彼の初期の長編「ニュークリア・エイジ」も読んでいるのだが全く何の印象も記憶も残っていない。聞けば、この作品は米国でもかなり酷評されたらしい。それに比べてこの「世界のすべての七月」はかなり印象が深い。「いつまでたってもヴェトナムのことばかり書いている」と酷評されながら、ここではちゃんと「あの時代」の全体像を捉えているように思える。
ただし、読み進むうちにもう一度誰が誰だか判らなくなってくる。やはり登場人物が多すぎて人間関係が入り組みすぎているのである。そういう意味では不親切な本である。だけど、この本ならもう一度読み返しても良いような気もする。
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