『コズモポリス』ドン・デリーロ(書評)
【4月2日特記】 書評は往々にしてあらすじを含むものだけれど、うーむ、書きたくないなあ、この本のあらすじ。
あらすじなんかを書いてしまうと、このまるで猥雑な詩のような文章が不必要に単純化されてしまうような気がしてならない。この本もまた『アンダーワールド』同様に読むのが結構しんどい本である。あらすじで書いてしまえば1行で済むようなことが何ページか難渋しながら読み進んでやっとおぼろ気に解って来る感じである。
もっともあらすじを書かなければならないほど(最後の場面を迎えるまでは)ストーリーに動きがあるわけでもない。巨大投資会社の若き経営者である主人公の日常が淡々と描かれるのみである。
ただし、この主人公にとっては日常であっても読者にとっては想像もできないほどの非日常の世界である。
オフィスを持たず大型リムジンでNYの街を移動しながら、広い車内に装備されたハイテク機器で情報をやり取りして莫大な金を動かしている。彼の周りには常にセキュリティが警護の網を張り巡らし(彼は命を狙われている)、入れ替わり立ち代わり部下たちが乗り込んでくる。毎日健康診断のためにお抱えの医師も乗り込んでくる。車を降りるのは(複数の女との)セックスと(妻との)食事と(貧民街での)散髪──そんな世界である。
ストーリーは派手には動かない。それでも『アンダーワールド』よりは(遥かに短いということもあってその分)遥かに解りやすく、起承転結もある。
「身体性」がテーマであることはかなりはっきりと打ち出されていて、別に訳者による解説を読まなくても解る。しかし、このまるで猥雑な詩のような文章を「身体性」という漢字3文字に押し込めてしまうのはあまりにも酷い気がする。
この本は全体像を把握すれば良いだけの本ではない。例えば胃壁の拡大写真を見るがごとく、その細部のひだひだに目を瞠るのでなければこの本を読む意味はないように思う。そう、「身体性」はそういうひだひだの形をとってグロテスクに我々の前に現れてくるのである。そして、なんだか解らずにそういうひだひだに驚いていると、いきなり最後の場面を迎える。
テーマは酷いほど見事に完結する。しかし、依然として猥雑な詩のようでもある──それだからこそ、いかにもドン・デリーロらしい傑作だと言えるのである。
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