『行儀よくしろ。』清水義範(書評)
【3月15日特記】 読み始めてすぐに「この書評を書く資格は自分にはないのではなかろうか」と思ったのだが、読み終えてみて果たしてその通りだった。
実を言えば僕は清水義範という人をずっと馬鹿にしていた。
何であったか憶えていないのだが、本屋で立ち読みした本がとてもつまらなかったからである。ところが2003年の6月に『日本語の乱れ』を読んで認識を改めたのである。この本はとても面白かった。そして、僕が普段思っていること考えていることをそのまま、しかも極めて上手に書いてくれたような気がした。
それでこの本を手に取ったのであるが、これは僕の思っていること考えていることに近いかどうかどころか、僕の思っていること考えていることそのものである。
だから読んでいて反発がない。驚きもない。いや、ことさら共感することさえない。とても他人が書いた文章だとは思えない。まるで自分が書いた文章を読み返しているみたいにスラスラと読めてしまう。
本というものはもう少し引っ掛かる部分がないと面白くないのである。
「なーるほど、そういう考え方があるか」とか「言われてみれば確かにそうだ」とか「でも、そこまで言うのはちょっと言い過ぎではないか」などと引っ掛かりながら読み進むのが読書の楽しみである。僕は全くそういう経験ができなかった。
『日本語の乱れ』の場合はストーリーが仕立ててあったりダイアローグにしつらえてあったりする部分を楽しんで読むことができたが、こういうストレートな評論となると、そういう遊びの部分が少なくて意外性がない。主張を補強するために挙げられている例に少しは新味のある話もあったが、まあその程度である。
イランを紹介するエピソードとして挙げられている2本の映画(『友だちのうちはどこ?』と『運動靴と赤い金魚』)についても僕は両方とも見ている。ひょっとして自分が書いたのではないかと思うくらいだ。これはまさに僕の主張そのものである。
だから僕はこの本の書評を書く資格がない。自分の書いたものを採点するわけには行かないし、もう少し観点の違う人が紹介するべきである。
ただ一つだけ言えば、最後に「行儀」という言葉を持って来てまとめ上げてしまったところだけが僕の趣味とは少し異なる。
結末を迎えて「行儀」とか「日本文化」などという言葉を持ってくると、必ず「なんだ、単なるアナクロニズムじゃないか」と思う人がいるのではないだろうか。読者の何%かは間違いなくそういう読み方をしているはずだが、もちろんそれは誤った読み方である。
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