『太陽の塔』森見登美彦(書評)
【2月18日特記】 粗はあるが面白い。が、果たしてみんなに理解されるのだろうか?
この面白さは、自ら京大生であるか、あるいはかつて京大生であったか、はたまた複数の京大生を手許に並べて観察する機会のあった者にしか解らないかもしれない。京大生がみんなこうだという訳ではないが、こういう京大生っているよね、と言うか、いかにも京大生っぽいと言うか、確かにたまにこんな京大生はいる、という按配で、多分これは京大生にしか書けない。
しかし読んでいて心配になったのは、この作家、果たして次の作品が書けるのだろうか、ということである。ここまでコアな分野に入り込んでしまうと、例えば「河内のオッサンの唄」1曲のヒットで終わってしまったミス花子や、「わかるかな、わかんねえだろうな」のギャグでほんの何ヶ月かだけスターだった松鶴家千とせの二の舞になるのではないかという危惧を感じる。
この作家がやろうとしたことは自らを戯画化することであり、人生に臨む態度としては極めて真っ当であり、崇高でさえある。極端にデフォルメした京大生を描きながら、実は青春期のエッセンスを普遍化することに成功しており、上出来の青春小説だと言って良いのではないだろうか。
青春期の一途さと、その裏返しの独善性とが綯い交ぜになって、なかなか可笑しくて哀しいお話になっている。「太陽の塔」という着想も良い(実際に見たことある人にしか解らないだろうけど…)。
小説冒頭に掲げてある2文を再掲しておくので、これを読んでどう思うかを、この本を読むかどうかの踏み絵にしてほしい。
「何かしらの点で、彼らは根本的に間違っている。
なぜなら、私が間違っているはずがないからだ。」
この2文を読んで反感を覚えた人は断じてこの小説を読んではいけない。これを読んで笑えた人だけがこの小説を読むべきである。「なんでこれを読んで怒ったり笑ったりしなきゃならないの?」という人には、まあ、読むなとは言わないが、お勧めはしない。
鴨川の川原にカップルが等間隔に並ぶという「鴨川等間隔の法則」が語られているが、僕は大学時代、コンパの帰り道では必ずこの等間隔のカップルの中間地点で吐いた。酒に弱い僕は2回吐いてからでないと決して家に帰り着くことはなかった。
この小説を読んでいると若い頃の自分の恥ずかしさがいろいろ甦ってくる。恋愛を忌避する主人公を登場させながら、実は一番描きたかったのは恋愛の切なさなのである。たくさんあるエピソードの中では「砂漠の俺作戦」が最高に傑作。
ただし、主人公が自らのプライバシーを語らない男だという設定をしたために、その分、人物像がぼやけてしまったり、終盤の「ええじゃないか騒動」の盛り上がりに至るあたりに少し不自然さが残ったり、粗はいくつか目立つ。
特に最後の1行だけは明らかに余計。冒頭の2文の心意気を貫徹して、あくまでそのトーンで押し通してこそ、強がり・負け惜しみの哀愁が漂うというものだ。
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