『蹴りたい背中』綿矢りさ(書評)
【2月22日特記】 『インストール』でデビューした時から気になっていたのだが却々読む勇気が湧かなかった。
年を取ってくると、若い作家が書いた小説や若い読者に受けている小説は、読んでも理解できないのではないかという恐怖感を抱いてしまう。芥川賞を受賞したことで初めて「自分にも読めるかな」という気になった。
何故なら、芥川賞の選考委員にはそんなに若い人はいないはずである。イメージとしては、文藝賞の審査員より頭が固そうでもある。ならば、これはオジサン・オバサンにも理解できる小説ではないだろうか、という心理が働いたのである。では、どちらを先に読むかということになるが、安全策を踏んで芥川賞受賞作から読むことにした。
最初のページを開くといきなり飛び込んでくる「さびしさは鳴る」という暗喩。そこにプリントを千切る実音を重ねてくる。「なるほど、こういう技巧に走るタイプか」と思う。かなり考えたんだろうな、この書き出し。ま、鼻につくけど悪くない。
ただし、こういう表現上の技巧を花火みたいに立て続けに打ち上げる訳には行かない。読むほうだって次第に馴れてしまう。それから先は言葉遣いの巧さとは違う領域で真価を問われることになるのである。
思春期にありがちな(あるいは、今でこそ少数派だが、僕らの思春期にはありがちだった)潔癖症というか、流されまいとする意識を描いていて、そんな鬱屈する女子高生のさらに向こう側に、友だちがいるとかいないとかいう次元ではなく、ほとんど外界を遮断してしまって典型的なオタク状態に陥ってしまった男子高校生「にな川」を据えている。
この対比的な構図は大変よく練り上げられている。にな川に対する主人公の思いが「蹴りたい背中」という言葉で(あるいは、現実に背中を蹴るという行為で)象徴されているのだが、この表現も鋭い。
それは恋愛感情でもなく親近感でもなく、かといって単純な嫌悪感でもないのである。しかし、その一方で、あれだけ皆の馴れ合いを嫌う主人公がどうして絹代にだけは屈託なく気を許しているのかは少し不思議である。
ライブからの帰り道の場面で、終バスが終わっていて主人公も絹代も歩いて帰れないのに、にな川の家だけが徒歩圏内であるというのも設定上無理がある。ダラダラと読み進むうちに、「しかし、こういう嫌悪感とか孤独感とかを乗り越えた部分を描けないと、作家としては小さく終わってしまう」という反発も覚える。
ところが最後まで読むとそれら全ての欠点が吹っ飛んでしまう。最後の部分の、この構成力は全く見事である。この本の閉じ方は常人にはできない。とんでもない力量である。いやあ、オジサン腰抜かしちゃいましたよ。
ストーリー上のどんでん返しを期待した人には肩透かしだろう。逆にストーリーの起伏もなく、これだけ余韻を残すラストシーンを書ける作家は、あたりを見回してもそうそう見当たらない。
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