『光ってみえるもの、あれは』川上弘美(書評)
【11月17日特記】 知らない言葉ではないが自分では一度も使ったことがない表現がそこかしこに出てくる。やっぱりこの人の筆運びには感心する。そして、何よりも日本語がよく刈り込まれている。植木屋が入った後の庭みたいなもんだ。
各章に一篇ずつ、いろんな人の詩が織り込まれている。今どき詩なんて時代遅れに決まってる。そんな時代にこんな素敵な詩を並べてみるなんて、粋だと思う。
結局のところ川上弘美には世俗的な人物を描くことができないのではないか、という気も少しするのだが、この小説に出てくるのはちょいと浮世離れした、いささか変な人たちばかりだ。変な親子関係、変な家族。別れても続く変な夫婦。つかみどころのない生物学上の父。女装する高校生。ちょっとずれた高校教師・・・。
そもそも今の日本には変な人が少なすぎる。世の中、こんな変な人ばっかりだったら暮らしやすいだろうにな、と思う。いや、しかし、変でない人たちもこの小説を読んでみようと思うのだろうか? そして、読んだら面白かったと思うのだろうか? もし面白かったと思うのであれば、世の中まだ捨てたもんじゃないと思う。
どんな小説でも、終り近くまで読むと、「さて、このお話どうやって終わるのだろうか?」と気になってくる。終盤で祭のシーンが出てきた時に、「ははあ、さては祭の盛り上がりに乗じて終わる魂胆か」と邪推したのだが、ちゃんと「祭のあと」があった。これには少し意表を突かれた。良い終わり方だ。余韻が深い。
僕が初めて bk1 に書評を投稿したのが川上弘美の『センセイの鞄』だった。そして、そこに最初に載っていたのが安原顕の書評だった。
安原は怒っていた。センセイが「憎からず思っている若い女に『抱いて!』と懇願されて指一本触れぬ」ことを「男の風上にも置けぬ奴」「小説上のリアリティがまるでない」「このカマトトぶりはどういうことなのだろう」と嘆いていた。僕はそれを読んで、「何を些細なことにこだわって的外れなことを言っているのだろう、このオッサンは」と思った。
後日、その安原顕が僕の書評を「bk1書評大賞優秀賞」に選んでくれた。それを見た知り合いの女の子が「yama-aさん、すごい! 安原顕に褒められてる!」というメールをくれて、僕は「ふーん、安原顕って、そんなすごい奴なのか」と思った。
今安原顕が生きていてこの小説を読んだら何と言うだろう? この小説にはセックスがちゃんと織り込まれている。読み始めて4ページ目で、主人公の高校生=翠はすでに彼女=平山水絵とのセックスを経験していることが判ってしまう。しかし、小説の中でセックス自体が描かれることは最後までなかった。その辺りのことについて、やはり安原はぼやくのだろうか?
川上弘美を読んでいると、なんだかいろんなことに思いを馳せてしまう。
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