『カンバセイション・ピース』保坂和志(書評)
【9月13日特記】 「似てるなあ」と思うのである。主人公あるいは作者と僕が。
ものの感じ方が近い面もあるかもしれない。いや、それより考えるプロセスが似ているのである。そして、暇さえあれば、と言うより朝起きてから寝るまでのあいだ、間断なく何かを考え続けているところはそっくりだと思う。読んでいて非常に親近感を覚える。
そこでふと疑問に思ったのだが、この小説はそこそこ多くの人に読まれて、かなり多くの人に激賞されている作品である。そんな読者たちはみんな僕と同じように親近感を覚えながら読み進んでいるんだろうか?──そうとは思えない。
しかし、この小説において、いちいち「なるほどなあ」とか「ふーん、そんな考え方があるのか!」などと驚きの連続の中を読み進んで行くという読み方があるとは、僕には想像もできないのである。僕は淡々と「ふん、ふん」と読み終わってしまった。
主人公の内田高志という小説家の家に同居する6人と3匹の猫の物語であるとは言っても、主人公の妻の理恵以外はみんな一日中ウダウダ喋っていたり、ギターを弾いていたり、お茶や酒を飲んでいたりするばかりで何も起こらないお話である。普通はこんな話を小説に書こうとは思わない。下手に書き始めたりすると巧く終われないのは目に見えている。
なのにこれを平然と書き始めて平然と書き終えている保坂和志の精神構造が解らない。いろんな考察や推論を述べたいのであればエッセイや評論という形があるのにその形は採らず、読んでみると確かにこれは小説でしか表わしようのない世界が書かれている。不思議。そして不思議なだけでなく面白いところがもっと不思議。
帯に「どこがおもしろいのか、と問われてもうまくいえない。しかしおもしろいのである」という関川夏央氏の評が載っているが、まさにその通りなのである。
これだけ深い思考過程が展開されているのは、さては普段の会話の中で実際に語った台詞を随分そのまま採用しているのではないか、という気がするのであるが、実際に読んでみると、作者が物語を書きながら、書くことによってなおさら考察が深まり、書くという過程とともに進展し確立してきた考えがかなりあることが明らかに読み取れる。言わば、作品の中で登場人物が自らちゃんと立ち上がって自分の脳で考えているのである。
ダラダラと書いてあるように見えても、キャラクターの措定の仕方・人物の描き分けはかなり明確で、決して作者自身の考えをいろんな登場人物に振り分けているのではないのが判る。何の山もなくプツンと終わっているように見えて、そこに至る構成がかなり綿密に練られた上でのことであるのも良く判る。
主人公・内田の思考は、この作品の中では完結はしない。しかし、それはもう読み始めた瞬間から予想していた通りである。自分の見方・感じ方を信用しないと言うか、過信しないと言うか、安易な結論に達してしまって思考を止めてしまわないのが、内田がものを考える時の態度なのである。彼が繰り出す「認識」とか「抽象」とか「世界像」とかの数多くのタームは、読者がこの作品を読み終えた後も考え続けることになるのである。
僕も若い頃は小説家を志して何作か苦労して書き上げてはみたが、いずれも満足の行く出来ではなかった。どこがどう悪いのか自分でも解らなかった。でも満足はできなかった。そして、今思うのである。僕は本当はこういう小説を書きたかったのだと。
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