『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』村上春樹・柴田元幸(書評)
【8月2日特記】 このタイトルは「騙し」である。これを見れば誰もがあの『翻訳夜話』の続編だと思うはずだ。ところが内容は似ても似つかない。
『翻訳夜話』は翻訳の楽しさ・面白さを教えてくれる本だった。僕が『ライ麦畑』の原文/野崎訳/村上訳の全てを読んでみたのは、『翻訳夜話』でカーヴァーの原文と村上訳、柴田訳を比べる、そしてオースターの原文と村上訳、柴田訳を比べるという体験をしたから、そしてその面白さに嵌ってしまったからにほかならない。
ところがこの『翻訳夜話2』の場合は、そのタイトルに反してサリンジャーの「作品」を語ることが主になっており、「翻訳」のほうは決して中心に据えられていない。翻訳を語る上で必然的に作品を語っているには違いないが、読者としてのフラットな感想ではなく訳者が高い地位から解説しているという印象を与えてしまっているのである。
作家が作品を語るのは往々にして悪趣味である。訳者が作品を語りすぎるのも同様である。この本の場合、特に序盤が辛い。翻訳を語っているようで作品を分析しすぎている感じがする。
とは言うものの、この本によって僕が村上春樹に対して抱いていた2つの疑問が解けた。
村上が cool as a cucumber という慣用句を「キュウリのようにクール」と訳す(翻訳だけでなく自作の小説中にも出てくる)のはクリーシェとしての存在感を活かすためだということ。
そして、「ライ麦畑」の中で数多く登場する you という単語をほとんどそのまま「君」と訳しているのは外国語の言語的様式性を重んじるからであって、ホールデンの言う you に聞き手としての仮定の対象を感じているからだということである。
僕としてはいずれも牽強付会な感じがする。
訳者としてクリーシェとしての存在感を活かしたいというのは解る。しかし、読者がその存在感を感じ取るためには cool as a cucumber という英語を事前に知っている必要があるのである。この慣用句を知らない人が日本語の文を読んでいていきなりキュウリに出くわしたら首を傾げるだけではないだろうか?
そして、you のほうだが、これをいちいち訳出するのもどうかと思う。英語の you は日本語の「君」よりも遥かに利用範囲が広いのである。日本人が英作文すると必ず they や we を使ってしまうかなりの局面でアメリカ人はよく you を使ってくる。日本語としての滑らかさを考えれば主語は省略したほうが良い場合も多いのではないか?
ただ、これを読んで少なくとも村上がうっかり訳してしまったのではないということが納得できたのは収穫である。
という風に、この本には確かに翻訳について考えさせてくれる部分も少なくないし、語りすぎとは言え語られている作品論も非常に興味深い。
特に僕のようなサリンジャーのファンであり村上のファンであり柴田のファンでもあるような人間には、気に入らない点もあるが読んでみると残念ながら面白い。そういう人は仕方がないから読みなさい、と言うしかないか?
ただ、村上が語る作品論は影響力が強すぎて読者の身に染みついてしまうのではないかという不安がある。ひとつの読み解き方が固定してしまうのはそれこそ村上の本意にもとることなのである。そのことを肝に銘じて読んでほしい。
最後に Call me Holden という章で柴田元幸の「芸」を見せてもらった。今までは翻訳の「技術者」という印象が強かったのだが(「技術者」というのは文字通り「技術を持った人」という意味であって、「機械的なことしかできない人」という意味ではない)、こんな「芸」ができるとは驚いた。いやいや楽しませてもらいました。
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