『ナイーヴ・スーパー』アーレン・ロー(書評)
【6月8日特記】 下手すると「引きこもりの青年が癒されてゆく物語」みたいなまとめ方をする奴がいるだろうが、それはちょっと違う。
確かに主人公は大学をやめバイトもやめてアパートに引きこもってしまう。ただし、この「引きこもり」は昨今日本で問題になっているような類ではなく、彼は庭に出て壁とキャッチボールをするし買い物にも行く。近所の幼稚園児とも口を利くし、そこから少しずつ人間関係が広がって行ったりもする。
「いい友だち」と「不快な友人」が1人ずついて、「いい友だち」のほうは遠くに住んでいるのでファクスのやりとりだが、「不快な友人」から電話で呼び出されて仕方なく会いに行ったりもしている。
兄に呼び出されてニューヨークに行き、ニューヨークでの生活を通じてある種のハッピーエンド、いや、幾許かハッピーな方向が見えてくるわけだが、これは決して「癒される」といった受け身の現象ではない。
彼は自分で考え、自分でいくつものリストを作り、じっくり悩んでゆっくり起き出して行く。これは正しい思考の発露とその果実であり、あくまで主体的な行動であって決して受動的な結果ではないのである。
ニューヨークの描写が素晴らしい。ほどよく観光ガイド的な部分を残しながら、大都市の魅力を余すところなく描き出している。まさに心洗われる感がある。NYに行ったことがある人ならなおさらそうなのではないだろうか。
そして(ネタバレになるので内容は書かないが)、最後の1ページが素敵だ。シブイと言うか、なかなかやるな、と言う感じ。これを含めて、いくつか挿入されるコピー(写し)が現物であるところが良い。そして、これがあることによってこの物語は「あてのない希望物語」に陥らずに済んでいるのである。
naive という英語(元はフランス語)には日本語の「ナイーブ」ほど良い響きはなくて、どちらかと言えば「世間知らず」という否定的なニュアンスの強い単語である。この本のタイトル(NAIV.SUPER.)はちょっと綴りが違ってピリオドまでついているのでよく解らないが、少なくとも英語圏ではある程度否定的なニュアンスで受け取られたのではなかろうか。
癒されたい人が読む小説ではない。自分で起き上がってくる人が読む小説である。
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