『日本語の乱れ』清水義範(書評)
【6月26日特記】 「賢い言葉のWeb」を主宰している(ったって独りでやってるんですが)僕としては、こういう本は本当に困るのである。
ここには僕が既に自分のHPに書いたのと同じようなことが書いてあったり、あるいはまだHP上には載せていないものの以前から思っていたことが書いてあったり、あるいは「なーるほど、そういうことには思い至らなかったなあ」と唸りたくなるものまである。
最初の例と最後の例は良いのである。最初の例は「そうそう、清水さん、あんたもそう考えてましたか」と喜んでいれば良いし、最後の例なら単に感心していれば良いのである。ところが真ん中の例はそうは行かない。
読んでしまった以上、同じことを書いたら盗作になってしまう。もちろん僕のやっているような零細サイトをとらまえて盗作だ何だと大騒ぎになるはずもないが、これは書き手のプライドの問題である。
僕がもし同じテーマを扱うのなら、1)清水義範とは角度を変えて書くか、2)あるいは清水の著書を引いた上でそれを発展させる説を展開しない限り値打ちがないのである。「これを読みさえしなければ、そんな面倒なことにならなかったのに」という思いで一杯である。うむ、悔しい。
ところで、この作品のミソは、これがエッセイではなく小説という形を採っているということである。
ものすごく広い意味で「日本語の乱れ」をテーマにした小説(ったって単なる言葉遊びの羅列みたいな作品もあるが)が次から次へと出てくるわけだが、この手のことはどう考えてもエッセイに書くのが普通で、それを小説にしようというのは暴挙というか、そもそも発想が異常である。わざわざ小説にする必然性がどこにもないのである。
で、そういうものを織り込んで出来上がった小説はどうかと言えば、純粋に小説として見ればどうってことない、いや、むしろ紛れもない駄作でしょう。
必然性がないのにわざわざ小説にして、しかも、その出来が良くないとなれば、要するに清水義範のやっていることはひとことで言って「余計なこと」なのである。そして、この「余計さ」を純粋に楽しむことができる人こそが、この本に望まれる理想の読者像なのである。多分それは僕でしょう(他には知らない)。
小田嶋隆による巻末の解説が見事で、これはこれで非常に正しいとは思うのだが、どこか急所を外しているように思う。第一こんなに褒めちぎってはいけない。
清水義範は大阪弁で言う単なる「イチビリ」なのだから。清水義範に対しては賞賛の言葉など投げかけてやるのではなく、「あんた余計なことやってますよ」と言ってあげるのが正しい供養(ったってまだ生きてるけど)なのではないかと思うのである。
あ~、面白かった(特に「たとえて言うならば」が一番良かった)──これは独り言。
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