『はじまりのレーニン』中沢新一(書評)
【6月8日特記】 だいたい学者の書いたものは素人には難しすぎてよく解らない。この中沢新一も例外ではなく、一生懸命読んでも何が書いてあるのかよく解らない。なのに読み進むにつれて、何が言いたいのかはよく解る。
何が書いてあるのかは依然としてよく解らないのだが、何が言いたいのかは非常によく解るのである──というのが、私が初めて中沢新一を読んだ時の感想であった。その時の本は『野ウサギの走り』だった。
久しぶりに中沢作品を読んでみて、前と違ったのは、決して何が書いてあるかよく解らないことはないぞ、ということだった。しかし、これは考えてみればこの本の内容が私の大学時代の専攻と大きく重なっているからにすぎない。逆に全体として何が言いたかったのかということは『野ウサギの走り』ほど明確ではなかった、と言うか、もう少し重層的である。
「レーニンがよく笑う人であった」という点から説き起こすあたりが何ともキャッチーである。第1章の「ドリン・ドリン!」はとても生き生きと伝わってくる。
しかし、ヘーゲル論に入ってしまうと、読者はこのレーニンの笑いを思い出す機会がなくなってしまう。そこからヤコブ・ベーメ論に飛んで、「『資本論』は、聖霊にみたされた書物なのだ」(169ページ)という独自の読み込みが披露されるあたりはなかなか仰天もので秀逸だが、やはりレーニンの笑いとどういう関係があるのか、今ひとつ咀嚼できないまま読み進むことになる。
そして、グノーシス論になって、やっとレーニンの笑いが戻ってくる。最後にレーニンの3つの源泉として、「古代唯物論、グノーシス主義、東方的三位一体論」(213ページ)が明らかにされてこの本は終わりである。
ここまで読み通して納得が行く一方、「はてレーニンの笑いはどこ行った?」という気がしないでもない。ちょっと騙されたような気分で更に読み進むと、「結び」で「恐がらずに墓へ行くレーニン」(217ページ)が紹介されて、にわかに「ドリン・ドリン!」が甦ってくる。
結局キーとなるのは「無底」ということか?
重層的な分、解りにくい点もあるが、確かに面白い書物だった。
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