『輝く日の宮』丸谷才一(書評)
【6月26日特記】 丸谷才一という作家を知ったのは高校時代か大学時代で、とても興味があったのだけれど、ある日いまだに旧仮名遣いで書いているらしいと聞いて、「そんな偏屈おやじの作品なんか読みたくない」と思って読まなかった。しかし、裏返せばそれは僕が偏屈な若者であったというだけのことであったようで、四十歳を過ぎて漸く読んでみる気になったのである。
一方、この作品で大きく扱われている『源氏物語』について言えば、実を言うと僕は高校時代、古文や漢文が大好きで、教科書に載っているどの作品も大変楽しんで読んだのだが、この『源氏物語」だけは「どう考えてもただの色情狂の物語でしかない」と感じられて、全く惹かれるところがなかった。
『伊勢物語』などは高校を卒業してからも現代語訳で読み直したり、NHK教育TVの「古典への招待」で取り上げられるといまだに欠かさず見ていたりするのであるが、それと比べると『源氏物語』には今も昔も全く興味が湧かない。
さて、この『輝く日の宮」であるが、これはそんな僕が読んでも大変面白かった。なんと言うか、めくるめくばかりの面白さである。頭がクラクラする。
これだけ高級なことを書きながら、全く衒学的になっていないのが不思議だ。ここまで多様な古典を織り込んで書くと通常は「どうだ参ったか」風の筆致になってしまいがちなのだが、作者は自分の薀蓄を全くひけらかす感じもなく、むしろ僕のようにろくに『源氏物語』を読んだことのない人間にも解るように懇切丁寧に筆を進めている。
このように見事な構成がどうして頭の中に浮かぶのだろう。これを書くためには恐らく相当入念な下調べが必要であったろうし(10年に1作しか書けないのがよく解る)、下調べを始める以前にかなりの教養が身についていなければならない。『源氏物語』の失われた章をめぐる謎解きをメインに、数多くの古典文学が枝葉として散りばめられ、ストーリー自体は主人公である一組の男女の恋の駆け引きめいたものを描いて、これがまた目が離せないほど面白い。
他の組合せの男女による「実事」のエピソードを脇に配しているのだが、このやり方も極めて巧い。水の会社に勤める男が語る、いろんな水にまつわるエピソードがなんとも興味深いし、冒頭で紹介される、女が中学時代に書いたとされる作中作もこれまた度肝を抜くような出来である。
多分『源氏物語』にもっと通じていればもっと面白いはずだ、と僕は想像する。きっと、読んだ人でないと分からない何かを踏まえた表現が随所にあるのではないだろうか。でも、それが分からなくても、この本は相当に面白い。
もっとも「旧仮名遣いとか古文とか聞いただけで頭が痛くなる」という人にとっても同様に面白いかどうかは定かではない。読むほうにも、教養とまでは言わないまでも若干の素養を求めてくる本ではある。
一点だけちょっと疑問に思ったのは、この終わり方はどうだろう? 僕は紫式部と藤原道長のやり取りよりも、安佐子と佐久良のやり取りを最後に持ってきたほうが余韻が強かったように思う。
Comments