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Saturday, June 14, 2003

『一九七二』坪内祐三(書評)

【6月14日特記】 目次を眺めているだけでワクワクしてくる──著者と1歳違いの僕にとっては、この本はそういう存在である。

かなり多くのページ数を割いて描かれている連合赤軍の一連の事件を最たるものとして、何だかよく分からないまま、しかしあの時まちがいなく自分の前を通り過ぎて行ったさまざまなこと──それらをこの本は解明してくれる。「『はじまりのおわり』と『おわりのはじまり』」という副題は見事なまとめになっている。

この長編評論の初出は雑誌「諸君!」の連載である。その第1回の部分で、著者は1972年という年を歴史の断絶が生じた年と規定して、「一九七二年に起きた大小様ざまな出来事を紹介、分析することによって、私は、私の歴史意識を呈示し、一九七二年よりあとに生まれた彼ら彼女らと対話を試みる」と書いている。

つまり、著者は自分より若い世代を読者として想定しているのである。

しかし、「これが若い世代に解るだろうか?」というのが僕の最初の感想であった。

そもそも分析を主体として書いているので、その分析を裏付ける証左としてさまざまな引用がなされてはいるが、そういう説明がスッと頭に入って行くのはやはりそれらを体験した世代、それらの史実を共有している世代ならではである。若い世代に後追いで理解させるためにはもっと事実そのものを羅列する必要があるのではないだろうか?

そんなことを思いながら、しかし僕自身は大いに楽しんで何度も頷きながら最後まで読んだのである。

そして、最後まで読んでみてやっと気づいたことがある。それは、この本はやはり若い世代を対象にして書かれた本などではないということだ。著者は結局自分と同世代の人間に呼びかけているのである。

君らはこういうことに気づいていたか?

過ぎてしまったことを解らないまま放置していないか?

その歴史認識を後の世代に伝えるのは我々の世代の使命ではないのだろうか?

著者ひとりでその任を負うのは重すぎるので、一緒に若い世代に働きかけてみる気はないか? そして、その際の歴史認識としてはこんなところでどうだろう?

この本は僕らの世代の本である。僕らの世代が後の世代と対話を試みるための言わば材料なのであった。

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