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Thursday, June 26, 2003

『輝く日の宮』丸谷才一(書評)

【6月26日特記】 丸谷才一という作家を知ったのは高校時代か大学時代で、とても興味があったのだけれど、ある日いまだに旧仮名遣いで書いているらしいと聞いて、「そんな偏屈おやじの作品なんか読みたくない」と思って読まなかった。しかし、裏返せばそれは僕が偏屈な若者であったというだけのことであったようで、四十歳を過ぎて漸く読んでみる気になったのである。

一方、この作品で大きく扱われている『源氏物語』について言えば、実を言うと僕は高校時代、古文や漢文が大好きで、教科書に載っているどの作品も大変楽しんで読んだのだが、この『源氏物語」だけは「どう考えてもただの色情狂の物語でしかない」と感じられて、全く惹かれるところがなかった。

『伊勢物語』などは高校を卒業してからも現代語訳で読み直したり、NHK教育TVの「古典への招待」で取り上げられるといまだに欠かさず見ていたりするのであるが、それと比べると『源氏物語』には今も昔も全く興味が湧かない。

さて、この『輝く日の宮」であるが、これはそんな僕が読んでも大変面白かった。なんと言うか、めくるめくばかりの面白さである。頭がクラクラする。

これだけ高級なことを書きながら、全く衒学的になっていないのが不思議だ。ここまで多様な古典を織り込んで書くと通常は「どうだ参ったか」風の筆致になってしまいがちなのだが、作者は自分の薀蓄を全くひけらかす感じもなく、むしろ僕のようにろくに『源氏物語』を読んだことのない人間にも解るように懇切丁寧に筆を進めている。

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『日本語の乱れ』清水義範(書評)

【6月26日特記】 「賢い言葉のWeb」を主宰している(ったって独りでやってるんですが)僕としては、こういう本は本当に困るのである。

ここには僕が既に自分のHPに書いたのと同じようなことが書いてあったり、あるいはまだHP上には載せていないものの以前から思っていたことが書いてあったり、あるいは「なーるほど、そういうことには思い至らなかったなあ」と唸りたくなるものまである。

最初の例と最後の例は良いのである。最初の例は「そうそう、清水さん、あんたもそう考えてましたか」と喜んでいれば良いし、最後の例なら単に感心していれば良いのである。ところが真ん中の例はそうは行かない。

読んでしまった以上、同じことを書いたら盗作になってしまう。もちろん僕のやっているような零細サイトをとらまえて盗作だ何だと大騒ぎになるはずもないが、これは書き手のプライドの問題である。

僕がもし同じテーマを扱うのなら、1)清水義範とは角度を変えて書くか、2)あるいは清水の著書を引いた上でそれを発展させる説を展開しない限り値打ちがないのである。「これを読みさえしなければ、そんな面倒なことにならなかったのに」という思いで一杯である。うむ、悔しい。

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Saturday, June 14, 2003

『一九七二』坪内祐三(書評)

【6月14日特記】 目次を眺めているだけでワクワクしてくる──著者と1歳違いの僕にとっては、この本はそういう存在である。

かなり多くのページ数を割いて描かれている連合赤軍の一連の事件を最たるものとして、何だかよく分からないまま、しかしあの時まちがいなく自分の前を通り過ぎて行ったさまざまなこと──それらをこの本は解明してくれる。「『はじまりのおわり』と『おわりのはじまり』」という副題は見事なまとめになっている。

この長編評論の初出は雑誌「諸君!」の連載である。その第1回の部分で、著者は1972年という年を歴史の断絶が生じた年と規定して、「一九七二年に起きた大小様ざまな出来事を紹介、分析することによって、私は、私の歴史意識を呈示し、一九七二年よりあとに生まれた彼ら彼女らと対話を試みる」と書いている。

つまり、著者は自分より若い世代を読者として想定しているのである。

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Sunday, June 08, 2003

『ナイーヴ・スーパー』アーレン・ロー(書評)

【6月8日特記】 下手すると「引きこもりの青年が癒されてゆく物語」みたいなまとめ方をする奴がいるだろうが、それはちょっと違う。

確かに主人公は大学をやめバイトもやめてアパートに引きこもってしまう。ただし、この「引きこもり」は昨今日本で問題になっているような類ではなく、彼は庭に出て壁とキャッチボールをするし買い物にも行く。近所の幼稚園児とも口を利くし、そこから少しずつ人間関係が広がって行ったりもする。

「いい友だち」と「不快な友人」が1人ずついて、「いい友だち」のほうは遠くに住んでいるのでファクスのやりとりだが、「不快な友人」から電話で呼び出されて仕方なく会いに行ったりもしている。

兄に呼び出されてニューヨークに行き、ニューヨークでの生活を通じてある種のハッピーエンド、いや、幾許かハッピーな方向が見えてくるわけだが、これは決して「癒される」といった受け身の現象ではない。

彼は自分で考え、自分でいくつものリストを作り、じっくり悩んでゆっくり起き出して行く。これは正しい思考の発露とその果実であり、あくまで主体的な行動であって決して受動的な結果ではないのである。

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『はじまりのレーニン』中沢新一(書評)

【6月8日特記】 だいたい学者の書いたものは素人には難しすぎてよく解らない。この中沢新一も例外ではなく、一生懸命読んでも何が書いてあるのかよく解らない。なのに読み進むにつれて、何が言いたいのかはよく解る。

何が書いてあるのかは依然としてよく解らないのだが、何が言いたいのかは非常によく解るのである──というのが、私が初めて中沢新一を読んだ時の感想であった。その時の本は『野ウサギの走り』だった。

久しぶりに中沢作品を読んでみて、前と違ったのは、決して何が書いてあるかよく解らないことはないぞ、ということだった。しかし、これは考えてみればこの本の内容が私の大学時代の専攻と大きく重なっているからにすぎない。逆に全体として何が言いたかったのかということは『野ウサギの走り』ほど明確ではなかった、と言うか、もう少し重層的である。

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