『憲法対論』奥平康弘・宮台真司(書評)
【5月31日特記】 僕は対談ものは滅多に読まないし、宮台真司という社会学者についても何かうさん臭い気がして今まで読む気にならなかった。ところが、朝日新聞に掲載されていた宮台真司の憲法論が見事なまでに正鵠を得ていると思ったので、この本を読んでみることにしたのである。
読んでみたところ、宮台真司という人は果たしてうさん臭い奴だった。
「まえがき」の部分で、宮台にとって奥平康弘という年長の憲法学者がどれほど偉大な存在であるかみたいなことを書いておきながら、その割には宮台はひとりで喋りすぎている。対談のうちの8割くらいは宮台の発言なのだ。
これは旧き良き謙譲の美徳の日本的価値観からすれば極めてよろしくない。いや、百歩譲ってそれはまあ良いとしても、そもそも宮台のものの言いようが不遜である。
「田吾作」だの「馬鹿ども」だのと「民度の低い日本人」を罵倒しまくるのを典型として、日本国民の大多数に対していちいち見下した表現をしている。いくら言ってることが正しかったとしても、これでは読む側の反発も必至で、こういう喋り方は非常に損だなあと思った。
それに対して、奥平名誉教授の「僕は結局憲法の世界では連戦連敗だったな」(第6章、232ページ)という謙虚な物言いが清々しく際立っている。
ただし、いかに言い方がひどいとは言え、宮台の言っていることは大筋においてちゃんと論理的整合性が取れているし、それは当然彼の分析力の非凡さを示すものであり、従って彼の発言には非常に有意義な提案が満ち溢れている。
だからこそ、いかに宮台が腹立たしい奴であっても、僕は彼の発言のひとつひとつに耳を傾けて最後まで読み終えた。──僕が思うに、日本人にはそういう態度が欠如しているのである。
日本人の多くは、言っていることの正しさではなく、言っている奴が嫌な奴かどうかみたいなことで判断してしまう傾向が強い。彼の喋り方が気に食わなければ、彼の話した内容については考えてもみないのである。この傾向を脱することができなければ、憲法論議なんて一歩も前に進むはずがないのである。
──そして、僕が今書いたまさにそのことと同じようなことを、宮台真司は全体として主張しているように思える。喋り方が気に食わないからと言って他人の話を聞けないような人間が、宮台によって繰り返し繰り返し「田吾作」と罵られているのである。
「『映画の中にどういう情報が内在しているのか』という観点から、『正しい情報を読み取りましょう』と考えるのは、残念ながら誤りだ」「映画から何を体験できるのかということは、自分の頭の中や記憶の引き出しに、どれだけのデータベースが構築されているのかということに依存する」(第2章、76ページ)。
「憲法とは、統治権力を義務規定に伏させるための、統治権力と市民の間の社会契約ですが、契約時に市民が統治権力に何を要求したのかという立法意思=憲法意思が、憲法に──したがって人権に──実質を与えるものとして極めて重要になってきます」(第3章、117ページ)。
「全ての人に今すぐ役に立つのでなければ役に立ったとは言えないというのであれば、ちょっと待ってください、誰々の不本意は大いにある、だけど誰々の不満があるということと、憲法がナンセンスというのは違うでしょう」(第4章、145ページ)。
「憲法は統治権力に対する命令、すなわち、『国家』に対する命令です。ピープルに対する命令、すなわち『社会』に対する命令ではありません。憲法の背後には、統治権力が極めて恐ろしいものだという発想があります」(第4章、161ページ)。
どうでしょう。上の引用全てが宮台の発言です。腹の立たないところを特別に選んでみました(笑)
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