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Sunday, April 27, 2003

『キャッチャー・イン・ザ・ライ』J.D.サリンジャー(書評)

【4月27日特記】 大学1年の前期の英語の授業で"The Laughing Man"を読んだ。恥ずかしながら、僕はそれまでサリンジャーという作家を知らなかった。後期のテキストは"Franny and Zooey"だった。その2つで完全にノックアウトをくらって野崎孝訳の『ライ麦畑でつかまえて』に進んだ。『笑い男』が収められている『ナイン・ストーリーズ』も読んだ。そして、ほかのグラス・サーガも読みふけった。

あれから四半世紀が過ぎ、村上春樹訳の『ライ麦畑』が出ると知り、その前にどうしても原文で読んでみたくなった。結果的に僕は野崎訳、原文、村上訳の3つの版の"THE CATCHER IN THE RYE"を読んだことになる。

この小説はもうしっかりと評価の定まった名作であり、かつ関連した評論も多く、僕ごときがとやかく言う隙はない。だから今回は野崎訳と村上訳の比較と言う1点に絞って書いてみたいと思う。

原文を読む前に僕が一番気になっていたのは、野崎孝が「インチキ」と訳した単語は何だったのかということであった。この言葉は僕が野崎訳を読んだ時にとても印象に残った強い言葉だった。

かつて山本夏彦が、「インチキ」という言葉がよく使われるがこれは「いかさま」と言うべきだ、みたいなことを書いていた。そのことからも判るように、「インチキ」というのはそう古い言葉ではない。ただ山本夏彦にとっては比較的定着していない表現であっても、僕の年代にとっては逆に決して新しい言葉でもなかった。

その新しくない言葉が僕に対してはとてつもなく強いインパクトを残した。主人公ホールデン・コールフィールドが忌み嫌うものごとを見事なまでに的確に表わしていた。僕は当時この言葉に強く惹かれた。

それから暫くこの言葉のことを忘れていたのだが、1980年代初頭に発表された佐野元春の2枚のアルバムでまた思い出すことになった。『Heart Beat』の表題曲『Heart Beat (小さなカサノバと街のナイチンゲールのバラッド)』と『Someday』所収の『Happy Man』の2曲の中で、佐野は「インチキ」という単語を甦らせていた。

僕は佐野がこの曲を書いた時に絶対サリンジャーを意識していたと思う。そして、それらのアルバムの中で、佐野が「インチキ」の対義語のように使っていたのが「リアル」という言葉だった。僕はその時改めて思った。「そうか、ホールデンの言うインチキとはリアルでないということなんだ!」と。

さて、前置きが長くなったが、この「インチキ」は原文ではphonyである。僕にとっては未知の単語であったが、辞書をを引くと「インチキ」という訳語が最初のほうに出てくるので、決して奇を衒った訳ではないことが判る。

しかし、それでも僕は村上がこの単語を何と訳すのかをものすごく楽しみにして「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を手に取ったのである。ところが、何のことはない、村上訳でもphonyは「インチキ」だった。それはそうだ。この強い言葉は他に訳しようがない。

次に気になったのはFuck you!である。野崎はこれを苦し紛れに「オマンコシヨウ」と訳していたが、誰でも知っているようにこれは罵り言葉であって、決して字面通りに性行為を勧誘する意味はない。村上がこの難しさをどう解消するか──それが僕の第2の興味であった。

が、こちらも何のことはない、「ファック・ユー」とそのまんまである。それはそうだ。無理して変な日本語に置き換えるより、そのままのほうがよほどニュアンスは伝わるだろう。

ことほどさように村上訳はけれん味がない。そして、何よりも驚いたのは、村上の小説に頻繁に登場する「やれやれ」という表現が、この翻訳小説の中でも頻出していることだった。調べてみると、これはBoy!だった。なるほど、「まあ」でも「おいおい」でもなく「やれやれ」と来たか。これではまるで村上自身の小説を読んでいるのと同じである。

そう、村上はまるで自分のオリジナル作品を書くようにこの小説を訳している。作品の大意と言うか雰囲気と言うか真髄と言うか、一番大切なものを伝えるために自分の文章表現力を駆使している感がある。だから、原文で同じ単語であっても訳語が違うケースも多々見られる。

僕が野崎訳を読み直してみて一番がっかりしたのは、ここで使われている日本語がどうしようもなく古くなってしまって引っ掛かって仕方がないことであった。落語に出てくるような江戸弁が出てきて、読んでいて笑いそうになるようではいかにも支障がある。

発表当時、この小説は「将来、この時代のアメリカの若者がどんな言葉遣いをしていたかを知るための博物的価値がある」と言われたらしい。

村上の訳は決して1950年前後の若者の言葉ではない。かと言って現代日本の若者言葉とも程遠い。しかし、それでも村上の訳によってこの小説は格段に読みやすくなったし、そのことによってこの小説はさらに長く日本の読者に愛されることになるだろう。

村上自身は決して当時の言葉や現代の若者の口の聞き方を再現するために訳しているのではない。この小説が描いていることは現代にも通用する──そのことを伝えるために、彼は自分自身の言葉でホールデンの世界を再構築しているのである。

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