『アンダーワールド』ドン・デリーロ(書評)
【11月17日特記】 よくまあこんなものを書いたなあという感慨もさることながら、我ながらよくこんな本を読み通したなあという思いのほうが強かったりする。上下巻600ページずつ、合せて1,200ページ超の大著である。
しかもこの本、読み始めてからペースを掴むのにひどく時間がかかる。
登場人物が次々と入れ替わる。読み進めば進むほど新しい人物が登場してきて、誰が主人公なのか掴めない。どうやらニックという人物が主人公に近いのだが、あるときは「彼」あるときは「俺」という人称で語られている。おまけに時代が頻繁に前後して何が何だか判らない。
そして展開が極めて遅い。冒頭のシーンはプロ野球のシーンなのだが、往年のアニメ「巨人の星」を思い出してしまう。──星飛雄馬が振りかぶって足を上げる。一陣の砂埃が舞い上がる。目の中で炎が燃え上がる。漸く球が指を離れる。ボールがクルクル回転しながらホームベースに近づいてくる。はい、そこで今回は終わり。また来週てな感じ。それと並ぶくらい、この小説は細部に至って綿密な描写を重ねている。
この小説は1951年10月3日、NYのポログラウンド球場でのプレーオフ第3戦の場面から始まる。この試合でジャイアンツがボビー・トムソンのサヨナラ本塁打でドジャースに勝って優勝を決める。そしてスタンドではこの模様をFBI長官のフーヴァーが俳優のフランク・シナトラらと観戦している。そのフーヴァーに試合中報告が入る──この日、ソ連が初めて核実験に成功したのである。これがこの小説の冒頭であり、しかも史実に基づいているのである。
そのあと山のように多くの登場人物(レニー・ブルースのような実在の人物を含む)とエピソードが重ねられて行くのだが、そこにあるのは一見バラバラの混沌であるが、読後感として得られるのはそれらが「どこかで全て繋がっている」という感触であって、それがこの物語全体を貫いている。
例えば、「原子爆弾を製造するとき、いいかい、やつらは野球のボールとまったく同じ大きさの放射線核を作るんだ」(上巻244ページ)という台詞で、冒頭のメジャーリーグと核実験が繋がってしまう。「すべては繋がっているっていうことさ」(上巻421ページ)という台詞もある。「すべては繋がっているのだ──システムの系列をたどっていった先にあるどこか秘密の一点で」(上巻600ページ)という表現が重ねられる。
主人公のニックは産業廃棄物処理の会社に勤めているのだが、「兵器と廃棄物のあいだには奇妙な関係がある」(下巻549ページ)とここでも2つのことが繋がってしまう。下巻の602ページでは、冒頭に登場したJ・エドガー・フーヴァー長官が登場人物の一人である修道女シスター・エドガーと繋がってしまう。「彼女がいる場所には時間も空間もない。あるのはただ接続のみ」(下巻599ページ)。
全ては繋がってしまっていることに気がついたニックは言う。「俺が希求するものが何か教えてあげよう。それは乱雑の日々」(下巻572ページ)と。それはまだ全てが繋がっているとは知らなかった若かりし日々、良き時代への回想である。
何故今までそのことに気がつかなかったかと言えば、それは「ものが大きくなればなるほど、そいつを隠すのは容易になる」(上巻463ページ)からである。そこにあるのはある種の敗北感であり、それは文中で「大衆文化をくそまじめに受け取ったやつらに対して大衆文化が復讐してるんです」(上巻472ページ)と形容されている。
そして、この本は「平和」という一語で閉じられている。寒気を感じさせるほど恐ろしい大著である。
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