『第四の手』ジョン・アーヴィング(書評)
【8月25日特記】 アーヴィングはやはりアーヴィングである。
アメリカ本国でも一部で「アーヴィングの不具嗜好」と非難されているようだが、彼の小説では体の成長が止まってしまった少年が主人公であったり、事故で片目を失ったり、兵役を逃れるため自ら指を切り落としたり、肉体的にそういうひどい目に遭う人物が頻繁に登場する。この小説においても主人公のTV記者がライオンに左手を食いちぎられてしまうところから物語が始まる。「世界は災害に満ちている」というのは未だにアーヴィング普遍の人生観であるようだ。
で、これをどう読むか?――「人間は失って初めて大切なものの価値が解る」とか「大切のものは外見ではなく内面である」というような教科書臭い心情を述べようとしているのではない。アーヴィングの世界においては災害は誰にでも降りかかってくるものであって、それが肉体的なものであるか精神的なものであるか、あるいは経済的なものであるかといったことはある種のバリエーションに過ぎない。
彼の小説の登場人物が魅力的なのは、そういう災害に遭いながら意外に淡々と人生を前向きに進んでいることである。
アーヴィングが設定した人物たちのもうひとつの特徴は女性が強いことである。強くそして積極的である。それはセックスに対しても例外ではなく、「ガープの世界」におけるガープの母や「サイダーハウス・ルール」のミーニィのように、自分から男にまたがってくるような女性像がこの「第四の手」においても数多く登場している。
いずれも今までのアーヴィングの世界の延長上にある人間像である。そして、アーヴィングの世界は人間の物語である。舞台がインドのサーカスであるかアメリカのテレビ局であるかといったことはその都度の借り物に過ぎないので、そういうことに拘泥して読んでしまうと一番大切な部分を見誤ることになってしまう。
この「第四の手」が今までの作品と異なるのは、常に主人公のほぼ全生涯を描いて物語を閉じてきたアーヴィングにしては、極めて短い期間(せいぜい10年くらいか?)を切り取ったストーリーであるということである。多分今回はこんな短い期間で描ききれてしまったということではないだろうか?
とにかく女にだらしない報道記者が3流TV局のリポーターとして世界を飛び回る前半はさながらスラップスティック・コメディであるが、後半から話はぐっと落ち着いてくる。それは主人公が落ち着いてくるということをも意味している。後半はしっとりとしたラブ・ストーリーである(とは言ってもアーヴィング的な「ただでは済まない」要素は満載だが…)。
これは紛れもない純愛小説である。だだし、初々しくもなければ美しくもない。にもかかわらず人間という存在の持つ魅力は余すところなく語られている。それがアーヴィングがアーヴィングである所以である。
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