『知覚の呪縛』渡辺哲夫(書評)
【3月28日特記】 これはひどい本だ。
我々のような素人筋はこんな本に手を出してはならない。
そもそも田口ランディが激賞しなければ、こんな本が大書店で平積みになることもなかったはずだ。田口ランディは15歳の時に『分裂病の少女の手記』という本を読んで激しい衝撃を覚えたという人物であり、彼女の実兄はひきこもりの末に餓死している。いわば彼女は古武士(ふるつわもの)なのである。我々のようなヤワな素人筋ではない。
なのに我々ヤワな素人は「分裂病」と聞くとちょっと惹かれてしまう。どんなものなのかちょっと知りたくなる。我々が読みたいなと思うのは、「分裂病とは、ほら、こんなものですよ」と簡潔に法則化して、明快に例示してくれる書物である。「だから、こういう風にすると、ほら、治るんですよ」と書いてあればなおのこと救われる。
ところが、現実の治療の現場はそんな生易しいものであるはずがない。しかし、往々にして売れるのは、そういう極端に単純化された書物である。
まず、『知覚の呪縛』という本はそのような本ではない。「なるほどね」と明るく頷きながら読めるような本ではない。
そして、何にもまして、書いてあることが、表現も内容も、あまりに難しすぎる。電車の中で読んでいて何度眠りに落ちてしまったことだろう。1行1行読み進むのに本当に難渋する。それに加えて、主治医である作者の苦悩が行間から随所に滲み出していて、読んでいても痛々しい感がある。それでいて、小説のように最後まで読むと何かが解決するかと言えば、とんでもない。解決も解消もしない。それどころか解決への暗示すらなく終わってしまう。
「こんなにしんどい目をしながら最後まで読ませて、これか!」と毒づきたくもなってしまう。現実の分裂病の重みの前に、わずかでも解決を期待した自分に罪悪感さえ覚えてしまう。それほど重い本である。だから素人は決して読んではいけない。
さて、私のこの文章をここまで読んでもなお、「それでも覚悟を決めて読んでみたい」という人だけに、私はこの本を薦めることにしよう。
上にも書いたとおり、読み終えた時そこには解決も解消もない。だが不思議なことに、かそけき救いがあり、確かに大きな余韻は残る。
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