『センセイの鞄』川上弘美(書評)
【2月15日特記】 読み始めてすぐに「あ、この文章は僕には書けないな」と思った。
では、他の小説を読んだ時には、「これなら僕でも書ける」と思うのかと言われればそういう訳でもないが、逆に「これは自分には書けない」と思わせる小説にも滅多に巡り会えるものではない。巧い文章というものは存外「巧い」と感じさせないものだ。感じさせても、せいぜいそれは「この比喩は巧い」といった、あくまで部分的な巧さだ。
僕がこの小説を自分では書けないと思うのは、それが巧いからではなく、あるいはそれが巧いからだけではなく、僕が見ていないものをこの人が見ているからだ。
僕らと同じ街を歩いて同じ空気を吸って生きていながら、この人は僕らとは違うものを見て、違うものを肌で感じ取っている。
文学作品というものは作者の体から出てくるものなのだろうが、「セインセイの鞄」の場合は、言わば出てくるよりも先に作者の体の中に入っているものが、既に違うのである。
世の中にはこういう感じ方がある。こういうもの見方がある。こういう生き方があって、こういう空気がある。そういう新鮮な空気に触れられる作品である。
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