Wednesday, August 09, 2017

『青白く輝く月を見たか?』森博嗣(書評)

【8月9日特記】 僕はこの手の SF小説というジャンルは読み慣れていない。ただ、この作家の本は読んだことがある。デビュー作にして第1回メフィスト賞を受賞した『すべてが F になる』だ。

コンピュータのことを学び始めた僕にとって、このタイトルからしてめちゃくちゃ面白かった(もっとも読んで初めて「ああ、そういう意味だったのか」と気づいたのだが…)。

で、最近の僕の興味は AI であり、シンギュラリティである。今回もまたこの人の小説が興味のど真ん中に刺さってきた。

海底5000mに沈没した潜水艦の中で、ほとんどの人間たちには忘れ去られながら、静かに稼働し続け、そしてディープ・ラーニングによって進化し続ける人工知能オーロラ。

その潜水艦に核弾頭が積まれたままになっていることを危惧する政府に頼まれて、ハギリ博士はオーロラとの接触、ひいてはコミュニケーションを試みる、というような話だ。

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Friday, July 14, 2017

『下り坂をそろそろと下る』平田オリザ(書評)

【7月14日特記】 買ったまま長い間放っておいた(と言うか、却々読む順番が回って来なかった)本である。この人の本を読むのは初めてだ。彼が作・演出した芝居も見たことがない。ただ、マスメディアにはよく登場する人だ。

僕の想像としてはかなり理屈っぽい脚本を書く人なのではないかな、という感じだった。「演劇界の論客」というイメージを持ってもおかしくないのだが、どうも「理屈っぽい劇作家」という歪んだ見方をしていた。

そして、政府のいろんな委員などを務めていたりしたので、きっと政府寄りの人なのだろうと思っていた。

ところが、実際に読んでみると、ここには安倍晋三が不機嫌になって喚き散らしそうなことが結構書いてあるではないか。

素晴らしいのは、政府の委員をやっている人が総理大臣の批判をしていることではなく、そういう視点を持っている人が自ら政府や役人の中に入り込んで、きっちり改革を行おうとしているところなのだ。

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Tuesday, June 27, 2017

『ポケモンGOは終わらない』西田宗千佳(書評)

【6月27日特記】 リリースから1年が過ぎて、いまだにポケモンGO を続けているのは50代以上だけだという説がある。確かに僕は続けているけれど、それが何か?という感じである。だって面白いのである。

そして、この本はこのゲームのどこが、このゲームの裏側にあるどういう思想がそれを実現しているのかをよく見抜いていると思う。

去年の11月に出た本である。何を今頃と思われる方もあるだろう。twitter で繋がっている西田さんによると、彼は今まさにポケモンGO1周年に関する記事を書いているのだそうである。

しかし、ややブームが去ったと言われているこの時期になってこの本を読んでも、まったく色褪せた感がないのがこの本のすごいところではないだろうか?

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Wednesday, June 14, 2017

『凹凸』紗倉まな(書評)

【6月14日特記】 なんでこの本を読むことにしたのかはっきりした記憶がない。多分書評を読んで魅かれたのだろうと思う。

もっと破滅型の主人公が出てきてとことん堕落する話かと思ったのだがそうではない。

いや、そもそも最初のほうは誰が主人公なのかよくわからない。焦点の当たる対象は次々に変わるし、話者も変わってくる。要するに栞と栞の母親と、離婚した父親、父親の新しい女、24歳の栞と同棲する16歳年上の男をめぐる家族の話である。いや、女2代の性の年代記と言っても良いのかもしれない。

でも栞はいつもセックスに明け暮れているわけでもない。栞の部屋はいつもいつも汚いわけではない。家事がしっかりとできている日もある。カラーコンタクトを嵌めているときもあれば、たまにそれを外して抜け殻のような暗い目をしているときもある。

話者は次々と変わり、最後のほうになると小説は栞の父親の視点で語られる。そして、その語り手が<君>と書くのは栞のことではなく、栞の男のことである。

このこんがらがった書きっぷりはそう簡単に思いつけるものではないし、そこがこの小説が形式上では一番独創的なところだ。

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Wednesday, May 31, 2017

『超AI時代の生存戦略』落合陽一(書評)

【5月31日特記】 今年になって初めてその存在を知り、ネットやイベントで話を聞いてとても興味深く思い、著書も読んでみなければと思っていた落合陽一の最新刊。

このところ電子書籍しか買っていない僕が、(当初は)紙でしか売っていなくても買ったくらいだから、結構入れ込んでいるのが分かってもらえるかもしれない。

で、ひと言で言って予想通りの面白さである。

このある種の楽観論は、ある意味ちょっと危ない思想であると言えなくもない。だが、それは著者が規定している古い世界観から一歩も抜け出せていないということを自ら証明しているようなものだ。落合が言うのは、まさにそのパラダイムから抜け出せということなのだろうと思う。

プロローグはスマートフォンについて書き起こし、来るべきシンギュラリティ(この本の副題には「シンギュラリティ」に括弧書きで<2040年代>と添えてある)に触れ、第1章ではいきなり「ワークライフバランスではなくワークアズライフ」であるべきだと唱え、そこからテクノロジーの歴史と思想史を紐解き、真ん中を過ぎたあたりからなんだか急に精神論っぽい展開になるのが逆に面白い。

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Thursday, May 18, 2017

『ヒットの崩壊』柴那典(書評)

【5月18日特記】 Amazon の紹介文には激変する音楽業界の潮流を明らかにする本だとある。

僕はこの手の本を読んでいるほうだと思うが、割合厳選して読んでいるつもりなので、そんなに外れたことはない。この本もなかなか面白かった。

まず良いのは、楽曲や歌詞の分析という面ではそれほど深く掘り下げてはいないが、決して手付かずではなく、時代の傾向としてちゃんと押さえていること。音楽に関する本が音楽を語らずマーケティングばかりになってしまうほどつまらないことはない。著者はそのことをよく知っている。

その上で、著者個人の趣味や印象だけで語ることのないよう、数値的な面での検証を重ね、そして定性的な分析として、数多くのミュージシャン(小室哲哉やいきものがかりの水野良樹ら)や各界で音楽に携わる様々な関係者のインタビューを実施し、そこから見えてくるものをしっかりと再構築できている。

日本のロックやポップスに興味と関心を抱いてきた者でもめったに知らないような新奇なエピソードやデータも示してくれている。時代を追ってその時どきの歌手やヒット曲や番組、イベントなどの構造を分かりやすく紐解いてくれる。その例は極めて豊富で、かつ適切である。

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Saturday, April 29, 2017

『騎士団長殺し』村上春樹(書評)

【4月28日特記】 端的に言うと、僕も村上春樹を読みすぎているのかもしれない。今回のこの作品にはどこか既視感がある。どこかで読んだようなシーン、どこかで読んだような表現がずっと続いているような感がある。

実は村上春樹の熱烈なファンが彼を真似してこれを書いたのだ、と言われると、あ、やっぱりそうだったのか、と思ってしまいそうな小説なのである。つまり、極めて村上春樹的ではあるが、今回に限っては新しさがないような気がした。

それを悪く言うと、村上春樹もどれを読んでも同じような感じになってきたな、ということになるのだが、実のところどの作家にだってそういうところはある。ジョン・アーヴィングなんてその最たるものではないか。作家が熱心に取り組んでいるテーマはどうしても凝縮されてくるのである。

今回の主人公「私」は30代の画家である。突然妻から不可解な離婚を言い渡され、ひとり家を出て車で東北を放浪する。その後、親友の雨宮の厚意で、彼の父親である有名な日本画家・雨宮具彦の家に住まわせてもらう。小田原の山の中の邸宅である。

そして、谷を隔てた向かいの家に住んでいる免色(メンシキ)という金持ちの男が「私」に接近してくる。自分の肖像画を描いてほしいと言う。決して怪しい男ではなく、むしろそこら辺の誰よりも常識家のようにも見えるが、動機がどうも不明である。

そうこうするうち、「私」は、その家の屋根裏で、世間に発表されていない雨宮具彦の作品(仮に『騎士団長殺し』と名付ける)を発見する。そして、不可解な事件の後、その絵から抜け出した騎士団長が「私」を訪れる。彼は自分がイデアであると言う(そして、下巻にはそれと対比してメタファーであると名乗る男も出てくる)。

そう、この辺りから完全にいつものハルキ・ワールドなのである。ただ、『1Q84』のような危機に満ちて禍々しい波乱含みの感じは少し弱い。変な言葉遣いをする騎士団長とのやりとりや、妙な頼みごとをしてくる免色とのエピソードはそれほどの起伏なく進んで行く。

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Thursday, March 30, 2017

『吾輩は猫である』夏目漱石(書評)

【3月28日特記】 朝日新聞電子版の連載で『吾輩は猫である』を読み終えた。ずっと読んできたこの夏目漱石のシリーズも、これで連載終了かと思うと少し名残惜しい。

僕はこの超有名な小説を実は初めて読んだのだが、読んでみて驚いたのはその構成のグダグダ感である。僕がすぐに連想したのは現代の作家である保坂和志。そう、彼の作品と同じく、なんだかウダウダ喋っているだけのような小説なのだ。

タイトルこそ『吾輩は猫である』だが、一貫して猫の一人称で語られているわけではない。時には猫の飼い主である主人や寒月くんや迷亭くん、独仙くんらが延々と明治の文明批評や文化論を語るばかりで、その間猫は不在なのである。

で、その話の逸れ方も通り一遍ではない。これって小説なのか?随筆じゃないの?と言いたくなるような、あっちへ行ったりこっちへ来たりする展開がまさに保坂和志的なのである。

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Tuesday, February 28, 2017

『蜜蜂と遠雷』恩田陸(書評)

【2月28日特記】 直木賞受賞作。僕に言わせれば、「なんだよ、今頃になって」という感じの直木賞。こんなに派手なパフォーマンスを見せてやらないと直木賞の審査員は彼女の実力を見抜けないのだろうか、という思い。

言葉で音楽を表した小説。それはある意味アクロバティックな試みである。恩田のファンであれば、前にもいくつかこんな試みがあったなと思い出すはずである。例えば『チョコレートコスモス』──これは言葉で演技(芝居)を表した小説。誰にでも書けるものではない。

あの小説では行間から演技が見えたように、この小説ではページから音楽が聞こえてくる(もっとも僕が読んだのは電子書籍だったがw)。

この小説は世界的なピアノ・コンクールである芳ヶ江国際ピアノコンクールの一次予選から三次予選と本選までの模様を描いた小説である。

主な登場人物は3人。

天才ピアノ少女ともてはやされていたのに、母親の死をきっかけに演奏会をドタキャンして音楽から離れてしまっていた栄伝亜夜。ジュリアード音楽院の優等生で、後に亜夜の幼馴染だったと判るマサル・C・レヴィ=アナトール。そして、養蜂家の息子で家にピアノさえなく、誰も名前を聞いたこともなかったのに伝説のピアニストの推薦状を携えて現れた風間塵。

そのほかに、サラリーマン生活をしていたのに諦めきれずコンクールにエントリーしてきた30歳手前の高島明石の姿も加わる。

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Thursday, February 09, 2017

知的遊戯

【2月8日特記】 今、朝日新聞デジタルの連載で夏目漱石の『吾輩は猫である』を読んでいるのだが、昨日、一昨日の回がとても面白かった、というか、こういうのは僕以外にも面白いんだろうか、こういうものを面白がる文化はまだあるんだろうか、と気になったので書いてみることにした。

一昨日の「192」では迷亭と独仙が対座して囲碁をしている。まず「賭けないとやらない」という迷亭をたしなめて、独仙が陶淵明の詩句を引いてもっとゆったりしないとダメだと言う。

迷亭は「さすが仙人だ」などとテキトーなことを言いながらハチャメチャな碁を打つ。

そのあと、この2人を見た「吾輩」が、なんで人間は囲碁みたいな窮屈なものをするのだろうと深い感慨を述べるのを挟んで、翌「193」では迷亭と独仙の丁丁発止に戻る。

まずは迷亭が司馬遷の『史記』の「項羽本紀」の有名な鴻門之会の場面を引用しながら勇ましく攻め込んで来る。

それに対して独仙は碁石を「こう継いで置けば大丈夫」と言いながら、「継ぐ」からの連想で、唐の文宗の句に柳公権が継いだ連句を引用する。それを受けて今度は迷亭が「継ぐ」を「撞く」に掛けて「撞いてくりゃるな八幡鐘を」と俗謡で返す。

すると独仙は無学禅師の言葉を引いてさらに切り返す。その手に慌てた迷亭は「待った」をする。独仙が「ずうずうしいぜ、おい」と言うと、迷亭は「Do you see the boy か」と来る。これは読んでいても俄に解らなかったのだが、「ずうずうしいぜ、おい」と「Do you see the boy 」がシャレになっている。

そのあと2人のやりとりは、歌舞伎十八番や禅語まで引きながらさらに続いて行く。なんとも凄まじい知的遊戯ではないか?

で、僕はそれをものすごく面白く思ったのだが、僕以外の読者もおんなじように面白がって読んだのかな、と気になったのである。

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