Monday, December 07, 2015

『被告人、ウィザーズ&マローン』スチュアート・パーマー&クレイグ・ライス(書評)

【12月6日特記】 今までに読んだ以外のマローンものがまだ翻訳で読めるとは思わなかった。マローンというのはクレイグ・ライスの一連の小説の主人公である小柄で飲んだくれの弁護士である。

僕はこのジョン・J・マローンとヘレン&ジェイク・ジャスタス夫妻が活躍するシリーズが大好きで、今まで長編は全部読んできた。

そして、あとは短編を残すのみとなったが、日本では1997年に創元推理文庫から出た『マローン殺し』(表題作以下10編を所収)以外に翻訳は出そうもないと諦めていたのである。

ところが、思わぬところで別の作品に出会った。それがこの『被告人、ウィザーズ&マローン』である。

これはスチュアート・パーマーとの共著による6編を収めた短編集である。僕はこのパーマーという作家を全く知らないのだが、ライスと同じくスクリューボール・ミステリと言われる、謎解きよりもコメディに重きを置いた作風の作家で、しかも、私生活ではライスの親友であったと言う。

これらの短編は2人でアイデアを練り、文章そのものはパーマーがほとんどひとりで書いたらしい。

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Wednesday, November 11, 2015

『オルフェオ』リチャード・パワーズ(書評)

【11月11日特記】 この本はこれまでの作品のように入り組んだ構造にはなっておらず、パワーズの小説としては非常に読みやすい。だが、やはりべらぼうな書物である。なにしろテーマが音楽と遺伝子工学というとんでもない組合せなのだから。

誰にも理解されないような複雑な現代音楽を書き続けてきた作曲家のピーター・エルズは、70歳を過ぎ大学講師をやめて自宅に引きこもるようになってから生物化学に興味を持ち、微生物の遺伝子に音楽を組み込もうとする。

そこにある日突然警察がやってきて、家宅捜索を始める。容疑はバイオテロ。

たまたま2度めに警察が来た時に外出していたエルズはそこから逃亡する。そして、そこから、エルズの逃亡生活と、大学をやめるまでの半生とが交互に語られる。

時制がころころ入れ替わるので、読んでいて時々分からなくなる。実際全部読み終わってから漸く全体の構造が飲み込めた部分もあった。でも、これまでのパワーズの、目眩がしそうなほど多彩に編み込まれた小説と比べると、作りは非常に単純である。

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Monday, October 26, 2015

『ネットフリックスの時代』西田宗千佳(書評)

【10月26日特記】 著者本人があるインタビューで言っていたが、これはネットフリックスの研究書ではない。時節柄「ネットフリックス」を入れておいたほうが売れるだろうという出版社の思惑でつけられたタイトルである。

確かにネットフリックスという「黒船」が来航したことによって、この本のサブタイトルにあるように「配信とスマホがテレビを変える」事態になると世間で喧伝されているが、それは独りネットフリックスによるものではない。

本書は配信とスマホによる視聴の状況と、それがもたらすライフ・スタイルの革命的変化と、そして、そのことがテレビや配信を要素とするウィンドウ戦略を変えていくだろうという予測を、あますところなく書ききっている。

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Monday, September 28, 2015

『日本の反知性主義』内田樹・編(書評)

【9月28日特記】 寡聞にして僕は「反知性主義」という言葉を知らなかった。でも、読み始めてすぐに、それは近年僕が、政治家たちの非論理的かつ排他的な言説や、ネット上の一部の人たちによる有無を言わせぬ悪罵の中に見出して、とても嫌な気分になっているああいう態度のことを言うのだと判った。

そして、なるほど巧く言ったものだ、という思いと、しかし、「それは反知性主義だ!」と言い放って終わりにするとそれこそ反知性主義なのだ、という思いが交錯した。

知性というのはそういう手に負えないような堂々巡りを含むものなのである。

この本は内田樹の編集のもとで、内田を含む9人の、さまざまな専門領域を持つ著者が文章を寄せ、それらに加えて内田と名越康文との対談が掲載されている。

冒頭に内田による、本全体を概括する、解りやすくストンと落ちる解説が60ページほどあり、それに続いて政治学/社会思想学者の白井聡による一文が続くのだが、これがまた極めて緻密で説得力がある。

ただし、やたら難しくて、こういう文章にぶつかった途端に読むのをやめてしまう読者が少なからずいるのではないかと思った。そうなると反知性主義者の思う壺ではないか。

多分彼らはこれを「学者の空論」などと総括するのだろう、とちょっと嫌な気分で読み進むと、それに続くのが作家の高橋源一郎で、一気に高橋らしい屈託もケレン味もない、素直な文章が展開される。

そもそも高橋の章の副題が「『反知性主義』について書くことが、なんだか『反知性主義』っぽくてイヤだな、と思ったので、じゃあなにについて書けばいいのだろう、と思って書いたこと」である。こういう思いは非常によく解る(笑)

このふざけたような優柔不断の中に知性があるのである。

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Tuesday, September 08, 2015

『それから』夏目漱石(書評)

【9月7日特記】 『それから』を読み終わった。これも朝日新聞の連載を Web版で読んだものだ。

『三四郎』の時にも驚いたが、これまたべらぼうな終わり方である。毎日読み重ねてきて、ああ、ここから先代助はどうするんだろう、と思ったら、「本日で連載は終了です」と書いてあって驚いた。

これは余韻があるとかないとかいう問題ではない。読者は暫く、自分の頭で代助の行く末をあれやこれやと案じてしまうことになる。漱石は当然そこまで見通していたはずだ。巧い終わり方である。

しかし、そういう終わり方というのはむしろ現代文学によくあるテクニックであり、例えば江戸時代の戯作文学なんてものはもっとはっきりくっきりとした結末まで描いていたものではなかったか、と訝ったのだが、考えてみれば漱石自身が近世の文学に対抗する新しい文学の担い手であったわけだ。そういう意味では、現代の文学はまだ漱石の遺産で食っているとも言えるのではないだろうか。

これはある種の恋物語である。しかし、主人公の代助が惚れるのは人妻の三千代であり、しかも、自分が親友の平岡との結婚を勧めたのである。これは今で言う不倫である。不倫というのは決して昭和の昼メロで登場したテーマではないのである。

僕はついつい夏目漱石ではなく、漱石の時代を読んでしまう。

この時代特有の設定として、代助は大学を卒業した高等遊民である。当時の大卒というのは大層偉くて値打ちがあったのだろう。しかし、職業に就いていないというのは、今で言うプータローである。親のすねをかじって生きているのである。

いや、すねかじりのプータローなどは別に珍しくもないので驚かない。でも、代助は単なるすねかじりではなく、一軒家に住み、女中の婆さんと書生の青年を雇って食わせているのである。そこまでやるって、どうよ?

でも、この時代の代助はそれを恥ずかしいこととも思わない。むしろ、実業に就くことを卑しいことのように考えている。

──ああ、これが明治のインテリなのか、となんだか感慨深くなってしまう。

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Friday, September 04, 2015

『脳はどこまでコントロールできるか?』中野信子(書評)

【9月3日特記】 内容が面白そうだから、と言うよりも、『情熱大陸』で見た著者が、単にずば抜けて頭が良いだけではなく、とてもチャーミングな女性だったので、そういう興味から手にとった本だ。

難しい本ではない。いきなり脳の解剖図が出てきて、それぞれの部分の名前と働きについての説明で始まったりはしない。脳というものの不思議を、あくまで脳が作り出す現象面から説いてくれるので、素人にはとてもとっつきやすい。

たとえその現象の原因となっているのが聞いたこともない部位や物質の働きによるのであっても、詳しいメカニズムは分からないけれど、へえ、そうなのか、とストンと腑に落ちる。

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Thursday, August 27, 2015

『火花』又吉直樹(書評)

【8月27日特記】 何度か読もうとしてやめた。

最初は漫才師を描いた話だと知った時。例えば近未来SFでも書いたというのであれば読む気にもなるが、漫才師が漫才師の話を書いたのでは読む気にならないと思った。

2度めは又吉が太宰治と芥川龍之介が好きだと知った時。これは僕の好きそうな文章を書く人ではないなと思った。

太宰は僕も中高で割合一生懸命読んだ。でも、嵌まりきらずに抜けだした。芥川は、多分僕が読んだ時期が年齢的に早すぎたのだろう。結局ちゃんと評価できないままだ。だが、いずれにしても、その2人が好きだという又吉は、僕の好きな作家ではないだろうと踏んだ。

でも、結局は評判に負けて読んだ。と言うより、受賞前に出演した『サワコの朝』と受賞後の『情熱大陸』という2つのテレビ番組を見て、又吉の感性や考えに共感を覚えてしまったからだ。

読んでみると、確かに近年僕が熱中して読んでいるようなタイプの小説ではない。でも、巧い。そして、整理されている。人物に共感が湧く。

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Wednesday, August 19, 2015

『何者』朝井リョウ(書評)

【8月19日特記】 朝井リョウを知ったのは吉田大八監督の映画『桐島、部活やめるってよ』だった。

そもそも監督に惹かれて観た映画であって、原作に興味があったわけではないということもあるが、僕は従来から映画が面白かったからといってすぐに原作を手に取ることはあまりない。

それは、僕が小説を読むときに重んじるのは、設定でもストーリーでもなく、表現力だからだ。いくら物語が面白くても、文章の巧くない作家(それはほとんど形容矛盾とも言うべき存在なのだが、でも、実際にいるのも確かだ)は読む気がしない。

それで、朝井リョウについても、何度か本屋でいろんな小説の冒頭を立ち読みした結果、多分この人なら大丈夫だろうと思って、この作品を買った。

読み始めてまず思ったのは、よくもまあこの作品で直木賞が獲れたなあ、ということ。

この作品では twitter の構造がひとつのキーになっている。自分でも twitter をやっていて、twitter のある種の危うさを実感している人でなければそれほど面白くないだろうと思う。直木賞の審査員に twitter にそれほど通じている人がいるとも思えないのに、よくもまあ直木賞がもらえたものだ、という驚きである。

僕自身は twitter を始めた当初から、メールアドレスからアカウント名を検索できない設定にしているので、この小説の中で起きているようなことは起きないのだが、でも、そういう設定もせずに放置している人も多いんだろうな、と思う。

それだけに twitter 利用者には親近感の湧く話ではないだろうか。

その twitter をうまく使って話は展開する。そして、その展開を追いながら僕が思ったのは、この作家は人の悪意を描くのが巧いということだった。映画監督で言うとタナダユキに通じるところがある。

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Thursday, July 23, 2015

『寂しさの力』中森明夫(書評)

【7月23日特記】 アイドル評論家が少し毛色の変わった本を書いたな、と思って手に取った。帯には「成功はさみしさから生まれる」とか「生きることは(中略)さみしさを肯定することです」などとある。

僕はこれを読んで、「ははあ、この人は『寂しさ』を『さびしさ』ではなく『さみしさ』と読んでいるのか」と、変なことに気が行く。「もうひとつ言えば、僕は『寂しさ』ではなく『淋しさ』という漢字を使うなあ」などとも思う。人は違うのである。

さて、そんなことはどうでも良いとして、これはその『寂しさ』をパワーと認定した書物である。

その見解に対して僕は、「ああ、なるほど、そういうことか! 目から鱗が落ちた」などと感動したわけでもなく、「そうそう、そうなんだよ。僕と同じことを考えている人がいたぞ!」と激しく同意したわけでもない。どちらかと言えば、「そりゃ、ま、そうでしょうよ」という軽い感じである。

ただ、その底流にあるのは、僕がものを考えるときに基本的な指針にしている「逆説的にものを捉える」という姿勢がある。だから、この本は非常にすんなりと、まるで水を飲むように僕の体内に取り込まれた。

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Saturday, July 18, 2015

『クール・ジャパン!? 外国人が見たニッポン』鴻上尚史(書評)

【7月18日特記】 これはどちらかと言えば鴻上尚史の本ではない。彼が足掛け10年司会を務めているNHK-BSの『cool japan』という番組の本である。僕はちらっと観たことがある程度である。

この番組はスタジオに、日本に来ている外国人を呼んで、ある時は番組スタッフが選んだ如何にも日本らしい物を見せ、ある時は日本人にはちょっと思いつかない日本の素晴らしさを外国人に語らせるような番組である。

そして、外国人ゲストは、時には日本全体を否定するような、スタッフも予期しなかった「ぶち壊し発言」をすることもある。その辺が、鴻上が司会をしていて一番面白いところのようだ。

で、この本は言わばその番組のダイジェストである。

読み進んで行くと、え、それって外国にはないの、とか、日本人にとっては当たり前のそんなものが外国人にはカッコイイのか、とか、へえ、それも日本で生まれたものだったのか、とか、いちいち驚きがある。なるほど言われてみればそうかもしれないと納得もする。

本の大部分はそういう番組事例の羅列である。ひとつひとつの事例はとても興味深いのだけれど、しかし一方で、如何にも鴻上尚史らしい分析や推論は、あるにはあるのだけれど、あくまで随所に見え隠れするという程度である。

そういう意味で、鴻上尚史のファンで彼の著作を何冊も読んでいる人にとっては、少し物足りない本かもしれない。

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