【12月28日追記】 録画しておいたTBS『流星の絆』の最終回を漸く観ました。いやあ、最後に来て全くの茶番になってしまいましたね(T_T)
僕は全回を見通して、総体としてはこのドラマを変わらず高く評価しています(どこをどう評価しているかについては、ドラマが始まってからまだ日が浅かった10月27日に書いた記事に詳細があります)。でも、最後の収束の仕方はやっぱりちょっと残念。
ドラマでも小説でもそうなんですけど、こういう推理もの(という雑駁なまとめ方をしてしまって申し訳ないですが)って、それまで丁寧にしっかりと人物を描いて来ながら、最後になると突然、人物を描くことより辻褄を合せることのほうに重点が置かれてしまい、ドラマがドラマでなくなってしまうところがしんどいんですよね。
しかも、当たり前かもしれませんが、真犯人は登場人物の中にいなければならないのです。
実際の犯罪捜査の現場では今まで全くノーマークだった人間が真犯人だったなんてことはザラにあるはずですが、だからと言って小説の終盤やドラマの最終回で「実は真犯人は今まで全く登場していない人物でした」と言う訳には行きません。
ところが、今回の『流星の絆』でもそうなんですが、(来年4月発売のDVD で初めて見る人もいるだろうから名前は伏せますが)真犯人だった人はとてもじゃないけど、天地がひっくり返ってもそんな行動に出る人には見えないんですよね。
この辺をすっきりさせるためには、凡そ殺人をしそうもなく描かれていた人が実は殺人犯だったとするのではなく、最初からその人物を描くときに「ひょっとしたら危ない面を持っている人かも」という含みを持たせておくのが一番なんですが、これをやりすぎると途中で真犯人が判ってしまい、命取りになってしまいます。
だから、何があっても人殺しなんかしそうもない人が実は・・・、という形にならざるを得ないのですが、そこに僕は蟠りを覚えるのです。
多くの作者はそんなことよりも、犯罪の動機は何で、犯行の手口はどうで、どうしてそれが今まで露見せずに済んだのか、といったことの"からくり"を成立させるのに手一杯のまま、作品を発表してしまうのです。
本当は、人物を点で捉えるのではなく、こういう人物がこういう事情でこんな風に変わって来たというように線を描き、この人物が社会の中ではこういう位置や立場にあるという風に面の中の点として捉えることが必要となってくるのです。
そういう風にすれば、人物を描く上で断裂が生まれずに済むのですが、一方で謎解きを考えながら他方でそんなことを巧くやりおおせるためには松本清張並みのの能力が必要となってきます。勢い、そういう人はそんなにいないから、必然そういう作品はあまりない、ということなんでしょうか?
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